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落語の開祖と流星群 九月さんライブ感想

九月さんのライブを見た

11月19日、九月さんの福岡公演を見に行った。
会場は福岡県パン会館。

パン会館?

福岡は北側が玄界灘に面していて、中心は海から少し南に下った西鉄天神駅あたりになる。ライブハウスや古着屋、ブランドショップや個人店が点在する大名地区はその西側。劇場やコアなライブハウス、アートスペースは北天神、通称・親不孝通りの界隈にある。

パン会館はそのどこでもない、平たく言えば北側の街外れにある。
正直、地元民ながらその存在を知らなかった。
外観にあまりパン要素はない。白い鉄筋コンクリートで、やや古さはあるがしっかりとしている。強いて言うと、階段が急すぎた。パン会館だからサンドウィッチの形を模してるとかではなく、敷地面積の関係で階段の角度を鋭角にせざるを得なかったのではなかろうか。

ほぼ鋭角の階段を登って4階にたどり着くと、防音の重い扉があった。普段はダンスの練習やインディーズアイドルのライブで使われているらしいスタジオがその日の九月さんの公演会場だった。

防音扉を開けると、九月さんがいた。

想像の中華丼を食べた

若干早く着きすぎたのか、会場にはまだ2〜3人しかいなかった。
客席から見て左側最前列の席に座って、開演を待っていると次々とお客さんがやってきた。1.51人くらいに1人は開口一番「ここで合ってますか?」と尋ねていた。
客は全部で15人ほどで、20代〜30代前半が多いように見えた。Dr.Martenを履いていたり古着っぽい服を着ていたりと、なんとなく同族意識を感じた。もし学校とか会社とかシェアハウスで知り合っていたら、一生の友達になれた人もいたかもしれない。いやでも、そういうの嫌いそうだしな、我々は。

1番目の演目は「ガルシアさんと龍平」、2番目は「人殺しの中華丼」だった。
「人殺しの中華丼」は九月さんの代表作の一つで、明らかに労働者向けの塩分濃度が高すぎる中華丼を、無職の客が注文するコントだ。
九月さんは中華屋の店主を演じる。店のカウンター越しに注文を受けて、中華丼を作って、振る舞う。もちろん舞台装置もなければ、九月さんの衣装は黒いパーカーなのに、本当に小さな工場が立ち並ぶ町の、労働者向けの、あまり綺麗ではないが美味しい個人経営の中華屋にいる気持ちになる。九月さんの演技力が抜群に高いため、言外にある情景がいとも簡単に想像できる。ライブに来られてよかったと、心底思った。

で、私が座っていた左側最前列の席は、ちょうど人殺しの中華丼を頼んだ無職の客の位置だった。九月さんが「仕事してないのに露骨に労働者向けの中華屋に来たの?」とか「働いてない時にうちの中華丼食べたら健康に悪い」と言うたびに目が合った。めちゃくちゃ責められている気分になった。なんなら自分が本当は無職なんじゃないかと思った。いや、九月さんは何も悪くない。いちおう私も仕事はしている。じゃあこの気持ちはなんだ。そうか、九月さんの演技がすごいのか。だんだんとヤバいものを見ている気になってきた。もちろん、いい意味で。九月さんは間違いなく芸人の中でもトップクラスの演技力と面白さを誇っている。それを今、まだマスには知られていない段階で目撃できることのヤバさ。九月さん、福岡に来ていただいて本当にありがとうございます。なんなら、想像の中華丼で喉が渇いてきました。

落語の始まりを見た

ライブは二部構成で、それぞれ15本ずつコントが演じられる。
一部だけの参加予定だったが、結局二部まで見た。幕間ではチェキも撮ってもらった。ただ設定をミスって、抽象の太陽みたいな光しか映らなかった。もしバンドでデビューすることがあったら、ジャケ写でこのチェキを使わせてほしい。まあバンドはやってないんだけど。


抽象の太陽

九月さんのコントの特徴は、日常と非日常の融解だと思う。
登場人物や設定はほとんど日常の範囲内にある。校長の挨拶やお笑い番組のオーディション、若者たちのシェアハウス、ラブホテルの受付、公園で娘のリレーの練習に付き合う父親。列挙していて気づいたが、これらは何となく郊外のにおいがする。洋服の青山とブックオフとコメダ珈琲とガストと葬儀場が延々並んでいる国道や、デカい鉄塔が連なって立っている田んぼと遠くの山並み、建売の住宅地と若干使い勝手が悪い私鉄の駅、1クラス25人ぐらいの小学校、郊外の街で、とりわけて良くも、とりわけて悪くもない生活が営まれているそのにおいがかすかに漂う。
その日常の切れ目から、非日常が顔を出す。
校長は野良だし、実はその校長も校長ではなくお笑い番組のオーディションに来た芸人だし、シェアハウスは麻薬の使用が疑われているし、でも実際は誰も麻薬なんてやっていなくて若者が夢のスタートラインに佇んでいるだけだし、ラブホの受付は非常識なほど威勢がいい。
日常を引き裂く非日常が、恐怖や違和感ではなく、ちゃんと笑いに昇華されている。これって、本当は凄いことなんじゃないか。

そして九月さんはその全てを体ひとつで演じている。登場人物が入れ替わるコントも多数あり、九月さんは髪を掻き上げる仕草や声色だけで一瞬で演じわける、別の人物になる。独特のスタイルを築き上げている九月さんにこういうと失礼かもしれないが、あえて類例を探し出すなら、これは落語かもしれない。

興津要『古典落語』(講談社学術文庫)によると、落語のルーツは室町時代末期、武将の側近として仕えた御伽衆の笑い話で、徳川氏が政権を握った元和・寛永期には、平和な時代にマッチしたナンセンスな、エロチックな笑いが民衆に人気を博したらしい。そして万治2年(1659年)に出版された笑い噺を集めた『私可多咄』では、噺の筋をしゃべるだけでなく、身振り手振りを交えた「しかたばなし」で登場人物を演じ分けることが書かれており、これが現代の落語につながったとされる。

九月さんは身振りで登場人物を巧みに演じ分け、さらに見えないはずの舞台装置や背景さえも想像させる。もちろん、他にもこのようなスタイルのコントをしている芸人さんはたくさんいるし、九月さんのオリジナルではないというのはそうでしょうが、九月さんの卓越した演技は、もし九月さんが江戸時代の、割と平和で文化が栄えた時期に生まれてたら、落語の開祖になったんだろうな、と容易に想像させる。落語の再発明。お笑いでお笑いの中の別ジャンルを再帰的に発明するというわけのわからない図が生まれた。

即興「200」

九月さんのライブに行ったら、やってみたいことがあった。
即興コントのお題だ。
九月さんのライブでは、客から単語を募って即興でコントを演じる時間がある。YouTubeにも上がっていて、本当に即興かと疑うほどクオリティが高い。ただYouTubeの動画ではコントの入りから始まるため、お題が出てからどれくらい思考しているのか分からない。また、単語から周辺の概念を連想してコントを組み立てているのは何となく想像できたので、単語の抽象度を上げるとどうなるかも気になっていた。
そこで前から考えていた「200」というお題を投げてみた。

即応だった。
マクドでオーダーを伝えて確認されるよりも短い時間でコントが始まった。
すげえなと思った。

内容についてはいずれYouTubeに上がるかもしれないのでそこで見てほしい。全く想定していない方向だったことだけはいうまでもない。

流星群

各部の最後のコントでは、それまでのコントで登場したモチーフが随所に盛り込まれる。全く関係ない設定のはずなのに、そこ繋がってたのかよ!となるのはもちろん、普通に聞くと何でもない、あるいは全く意味不明なワードなのに、そこにあることで笑える。構成としてとても美しかった。流星群みたいだなと思った。地球から飛び立ったワードの一つ一つが、長い宇宙の旅を終えて再び地球に戻り、大気圏に突入する際に放つ光。儚さと郷愁を帯びた流星群が、少し海風を含んだ天神の夜空に降っていた。

約四時間のライブを見終えて会場をあとにする頃には、日常のすべてが面白く見えるフェーズに入っていた。駐車禁止の看板の裏に書かれた「@@@」の落書きに「@を@で挟んでもアドレスにならないだろ!」とツッコんだり(心の中で)、平日朝7:00-10:00限定のコーヒー屋に「営業時間短いだろ!」ツッコんだり、そしてその店のキャッチコピーが「コーヒー好きになりたい人のためのお店」なことに「客層絞りすぎんな!」とツッコんだり、そういえばパン会館の階段急すぎるだろ!と思い出し笑いしたり、完全に九月さんの世界に取り込まれた。非日常は思った以上にその辺に転がっている。そして九月さんは、日常から非日常を抽出する天才だと思った。

その夜、流星群の夢を見たのはいうまでもない。


九月さんの著書『走る道化、浮かぶ日常』にサインしていただきました。パン会館?



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