小説「ぼくはうみがみたくなりました・その後」1~2章
1
お気に入りの場所は、大きな空の下にあった。
ぐるりと周回路に囲まれていて、その内側にはたくさんの細い道がある。
信号もある。芝生の丘があって、坂道もある。
T字路やクランクやS字カーブもある。
児童公園はない。ブランコと鉄棒と砂場があったらいいのにと思う。
ガソリンスタンドやコイン洗車場があったら、トミカタウンみたいだ。
渋滞はない。スピード違反をする車はいない。追い越しをする車もいない。どの車もちゃんと制限速度以下で走っている。
だからここはとても安心できる。
ここはぼくの〈せいち〉です。
漢字で書くと〈聖地〉だ。
オリンピックの聖地はギリシャのアテネ。高校野球の聖地は甲子園球場。サッカーの聖地は国立競技場。ラグビーの聖地は花園ラグビー場。バレーボールの聖地は代々木体育館。
スポーツのルールはあまりよくわからないけど、みんなが大切にしている場所で、みんなが大好きな場所で、みんなにとって最高の場所を〈聖地〉と呼ぶ。テレビのスポーツニュースのアナウンサーが言っていたから間違いない。
おおひらドライビングスクールはぼくの〈せいち〉です。
自動車教習所は、新興住宅地と共存していた。
このあたりはひと昔前まで、雑草だらけの湿地帯のような土地だったらしい。
すぐ近くを流れる二級河川が大雨のたびに氾濫し、教習所の敷地はすぐに水びたしになった。
それが、川の護岸工事が完了したとたん、区画整理と宅地造成が一気に進んだ。
それで、ごちゃごちゃした住宅街の中に広々とした教習所がある。
最近の浅野淳一は、作業所の仕事が午後三時に終わったあと、まっすぐ家に帰らず、遠回りしてここにやって来ることにしている。作業所も川のそばにあるので、川沿いの遊歩道を歩いて来ると自動的にここの近所までたどり着く。大雨の日は川の水が増えて危険だから来ないが、そうでなければなるべく来る。
教習所の建物は敷地の北側にあり、東西に細長く建っている。広い窓に覆われたクリーム色のコンクリート造りの2階建てだ。
壁には教習所のロゴマークが描かれている。青い海の海岸にヤシの木とオープンカー。〈おおひらドライビングスクール〉の文字がカッコいい。
教習コースでは赤と青の同じ車種の教習車が規則正しく徐行している。赤い車がオートマチック車で、青い車がマニュアル車だということを知っている。
淳一はいつも路上教習の車が出入りする門の横の格子フェンスに額をくっつけるようにして眺めている。眺めていると、だんだんイライラしてくる。健二のことを思い出してしまうからだ。
イライラしてきたら、自動販売機でコーラを買って飲む。
自動販売機はフェンスの前に二台並んでいて、右側の自動販売機のほうがなぜか10円安いのだけれど、そっちにはコーラが入っていない。だから値段の高い左側の自動販売機でコーラを買う。コーラを飲むとちょっとだけ気持ちが落ち着く。
ぼくが長男で健二が次男です。
なのに、ぼくが〈×〉で健二が〈〇〉なのはずるい。
二歳違いの弟の健二が大平ドライビングスクールを卒業したのは、ひと月前のことだった。
弟はオートバイの免許を欲しかったのだが、両親は危険だという理由で絶対に許さなかった。だから弟が教習所に通うことなんてないと思っていた。
ところが弟は教習所に通っていた。家族が淳一に隠していたのだ。
でも淳一は知ってしまった。リビングのテーブルの上に教則本が置きっぱなしになっていたからだ。
教則本のページの間にはプラスチックの磁気カードがはさまっていて、よく見てみたらそれは大平ドライビングスクールの受講会員カードで、裏の名前の欄には極細の黒マジックを使って〈浅野健二〉と下手くそに書かれていた。
お父さんもお母さんも健二もずるい。
大平ドライビングスクールでは四〇〇ccまでの中型二輪の免許が取得できる。健二が自動二輪の免許を取るのなら、淳一だって自動車普通免許を取りたい。
カードの裏には、〈ご来所時にはかならずこの磁気カードをご持参ください。お忘れになると、予約機、教習原簿検索機、配車機、自動入金機の利用ができません。このカードは卒業まで必要ですので紛失などされないよう大切に保管してください。このカードを他人に貸与しないでください〉と書いてあった。
健二の机の上にホワイト修正液があります。
夜になって、健二が磁気カードを探していたが、淳一は知らんふりをした。
翌日の朝、淳一は〈浅野健二〉の文字を修正液で消し、代わりに〈浅野淳一〉と自信のある綺麗な文字で書きこみ、教習所に持って行って予約機の機械に入れてみた。パスワードが必要だった。パスワードはわからない。機械の前で困っていたら、カウンターのお姉さんがやって来た。お姉さんはとり消しボタンを押して、磁気カードを引き抜いた。磁気カードは返してもらえなかった。教習も受けさせてもらえなかった。
仕方ないので、遅刻して作業所に出勤することにした。
お姉さんもずるいです。
みんなみんなずるいです。
考えれば考えるほど腹がたってきた。
そして翌日から、淳一の大平ドライビングスクール通いがはじまった。
着替えをして、朝ごはんを食べて、トイレに行って、家を出る。でも作業所には向かわず、教習所の前まで歩いて行って、自動販売機の近くに朝から夕方まで立っていた。お昼は食べなかったが、コーラはときどき飲んだ。
作業所のアマノさんからお母さんに連絡があり、無断欠勤を怒られたが、毎日どこへ行っているかは絶対に教えなかった。
四日目になってようやく、淳一は教習所の脇にある専用駐輪場に自転車を停める弟の姿を発見した。健二は両耳からイヤフォンを外し、ショルダーバッグにしまった。
音楽を聴きながら自転車に乗ってはいけません。
淳一は健二の姿を目で追った。教習所の建物に入って行く。ガラス張りだからよく見える。
健二はカウンターのお姉さんと話をし、それから大笑いし、お姉さんから何か小さなものを受けとった。お姉さんも笑っていた。どうしておかしいのかはわからないけど、あれはたぶん淳一が返してもらえなかった磁気カードだと思う。
それから透明ファイルに入った書類のようなものを受けとると、大勢の他の教習生たちにまざってベンチにすわって教則本を読みだした。
オートバイ教習と自動車教習はぜんぜん違います。
信号のある交差点の近くにオートバイがたくさん停まっていて、あそこがオートバイ教習のスタート地点だ。バイクは青色で、ナンバープレートはなく〈3〉とか〈7〉というゼッケン番号だけだ。オートバイは路上教習がないのだからこれでいい。教習車のほうにはちゃんと正式なナンバープレートがついている。ナンバープレートがないと仮免のあとに路上教習に出られないからだ。ゼッケン番号でふつうの道路を走っていいのはマラソンの選手だけだ。
あちこちを白いヘルメットをかぶった人のオートバイとグレーのヘルメットをかぶった人のオートバイが二台一組で走っている。白が教習生でグレーが教官だ。教官のバイクはふつうだけれど、教習生のバイクは金属パイプに守られている。転倒の時の危険防止だ。
教習生は、それこそマラソン選手がつけるような黄色いゼッケンをつけている。どうせならバイクのゼッケン番号と教習生のゼッケン番号を同じにしたらいいのにと思う。別の番号にしているのはなぜだろう?
自動車免許と同じように、バイクにもマニュアルミッションに乗れる免許とオートマチック限定免許がある。オートマのスクーターの運転にはクラッチ操作がない。マニュアル車は左足でのクラッチ操作が難しい。教官はスムーズに走れるけど、教習生はでこぼこぎくしゃくしか走れないからマニュアルのほうがおもしろい。
オートバイ専用の八の字コースや、コンクリートの平均台コースや、黒と黄色のストライプのパイロンを並べたスラロームコースがある。自動車教習だと運転手が車内でどんな操作をしているのか全然見えないけど、オートバイだと教官が教えるために大声を出しているから、それが聞こえて次に何をするのかわかっておもしろい。左折しなさい、とか、直進しなさい、とか、その先で停まりなさい、とか、命令する声がはっきりしていて優しいのは、学校の先生や作業所の職員さんと一緒だ。
まもなくしてチャイムが鳴り、教習の時間が終わった。
それから15分ぐらいたって、もう一度チャイムが鳴り響くと、待合室のベンチに座っていた健二とその他の教習生たちが建物の外に出て来た。
健二は何番のオートバイに乗るんだろう?
教官たちも大勢出て来て、一人一人の教習生たちに声をかける。健二に声をかけたのは、髪の毛がボサボサのおじさんだった。
そして、健二とボサボサ頭の教官はオートバイのほうに歩いて行くのだろうと思ったが、淳一は予想が外れてビックリした。すぐそばに停まっている青い26号の教習車の運転席に教官が乗り、助手席に健二が乗りこんだからだ。青色だからマニュアル教習車だ。
青い26号車がスタートし、ゆっくりと周回道路を走りはじめた。敷地の反対側に行くと遠くなるし、丘の向こう側になると見えなくなってしまう。それでも淳一は頑張って青い26号車を目で追いかけ続けた。見失っても必ず戻って来る。
周回道路を一周すると青い26号車は路肩に停まり、健二が降り立った。そして、ボサボサ頭の教官と交代して運転席に乗りこみ、ふたたび発進した。
大変なことに気がついた。健二は自動二輪ではなく、普通自動車の免許を取りに来ていたのだ。
健二がぼくより先に自動車運転免許を取ってしまう!
そう思うと一気に悲しくなってしまった。涙があふれてきて、26号車の数字が読めなくなった。そのままここにいると暴れたくなりそうな気がしたので、あわてて早足で歩きだした。
家に帰り着くと、マンションの前のロータリーに作業所の車が停まっていて、お母さんとアマノさんが話をしていた。アマノさんは、怒っているような顔をしていたが、淳一の顔を見たとたんに口を笑うかたちに変えた。
「浅野さん、明日はちゃんと仕事に来てくださいね」
しゃべりかたが優しかったから安心した。でもそのあとに、
「毎日いったいどこほっつき歩いているの!」
とお母さんが怒鳴り声を張り上げた。小さい頃から淳一を悩まし続けた全身に突き刺さるようなとがった声がとてもつらい。
教習所の前では頑張ってやっと何とか我慢できた。けど、我慢が限界を通り越してしまった。つら過ぎて、頭のなかにギザギザがあふれだした。あふれだしたら止まらない。
「うわあ~あ~あ~あ~!」
もう駄目だった。肩を抱いて止めようとしてくれたアマノさんを逆に突き飛ばし、淳一はエントランスを駆け抜けた。エレベーターは使わない。階段がいい。11段ごとに回れ右しながら駆け上がり、7階にある自宅のドアの前も通り過ぎて、一気に屋上まで。淳一がドライバーでこじ開けた非常階段のドアから12階建てマンションのコンクリート張りの屋上に出た。
そして、遠くの景色に目をやり、手の甲を噛みながら跳躍した。
久しぶりのパニックだった。一度パニックがはじまると、自分では止められない。
パニックになると、どうしても近くにいる人を突き飛ばして迷惑をかけてしまう。
だから早く一人にならなければならない。一人になれば迷惑をかけないで済む。それで家でパニックになったときは必ず屋上に来る。
本当は立ち入り禁止の場所なのだけど、〈立入禁止〉の紙もはがしたし、カギもこわしてあるから大丈夫だ。ここであれば淳一以外の人間が姿を見せることはまずない。去年の5月12日に門倉明日美さんと会って以来、淳一がいるときに誰かが顔を見せたことはない。
跳躍するとパニックがおさまってくれるから不思議だ。
頭のなかのギザギザが、跳ねるときの振動で頭蓋骨の上と下にぶつかって角がとれてだんだん丸くなっていくからなのかも知れない。
十分ぐらい跳躍をつづけて落ち着いてから、11段ごとに回れ左しながら階段を下りて自宅へ戻ると、お母さんが先に戻っていた。
「あさのじゅんいちクン!」
お母さんの声は強かったけど落ち着いていた。だから返事をした。
「はい~っ」
「お母さんに教えて。作業所に行かないで毎日どこに行ってるの? どこか行きたい場所を見つけたの? それともただのおさんぽ? 毎朝ちゃんと出かけて行くのはお母さんをだますためなの?」
だましてはいません。
言うと怒られるから言わないだけです。
淳一をだましていたのはお母さんたちだ。健二が自動車の免許を取りに行ってたなんて!
「作業所に行かないとお給料が減らされちゃうのよ。それでもいいの?」
作業所のひと月の給料は八千円です。
おおひらドライビングスクールの授業料は三十一万四千八百二十円です。
淳一にはわかっている。
給料を貯金して教習所に通うためには、三年と四ヶ月もかかる。
その間、大好きなコーラも買えなくなってしまう。それは嫌だ。
健二は高校を卒業したあとは浪人していて、予備校に通っている。働いていなくて無職だから八千円も稼いでいない。ゼロ円だ。
それなのにお母さんとお父さんは、健二が大学の試験の勉強をしないで教習所の学科の勉強をしていることを怒らない。
淳一はちゃんと働いているのに、教習所の学科の勉強をしていると怒られる。
ずるい。
絶対にずるい。
絶対に絶対にずるい。
淳一がずっと黙りこんでいると、お母さんはため息をつき、ダイニングの椅子に座った。
「淳ちゃんはいつからそんな悪い子になっちゃったのかなあ。ずっといい子だったのに」
いい子とも悪い子とも違います。二十歳です。働いているからもう大人です。
悪い子は健二です。健二はまだ未成年です。
「お母さんにちゃんと教えてください。淳ちゃんは毎日どこへ行ってるんですか?」
ぼくはおしゃべりがにがてです。
今日はもう絶対にしゃべらないことに決めた。
その日だけでなく、翌日もその翌日も、一週間はしゃべらないぞと決めた。自分で決めたから、これはもう決定だ。
そしてその日をさかいに、淳一は大好きだった運転試験問題集を解くこともやめてしまった。急にやる気がしなくなってしまったのだ。お母さんに、どうしてやらないの? と質問されても、もちろん応えなかった。黙秘権だ。
もうやらなくても大丈夫なのはわかっている。問題集は一六三冊やった。問題は全部暗記している。どんな問題が出ても、学科試験は絶対に百点をとる自信がある。
問題集をやらないかわり、大平ドライビングスクールに毎日来ることにした。作業所からの帰りに、川沿いの遊歩道を歩いて20分かかる。まっすぐ家に帰れば15分だけど、遠くてもここまで来て、コーラを飲みながら教習所を見学すると決めた。
毎日来ているから、教習所のコースは全部覚えた。信号のある交差点を中央にして、どこにS字コースがあって、どこにクランクがあって、どこの袋小路で車庫入れをすればいいのか、全部知っている。全部のコースを地図に描くこともできる。
完璧です。
でももっと完璧にしておきたいです。
自信はあるけど、ひとつだけ不安なことがあった。
いつだったか、健二が言っていたのだ。自閉症の人はパニックになると危ないから自動車免許が取れない、と。
だからアマノさんを突き飛ばしてしまった日が最後だ。ぼくはあの日以来パニックになっていない。
これからもずっとずっとパニックにならないように頑張るつもりだ。
ぼくはいつかきっと、ぼくの〈せいち〉で自動車運転免許証をとります。
今日もだんだん暗くなってきた。まだずっと見学していたいけど、遅くなったことぐらいでまたお母さんに怒られるのは嫌だから帰ろうかなと思ったとき、ビックリした。車道を通りかかった自動車の窓からジュースの空き缶を投げつけられたからだ。
小学校五年生のとき、黄色い帽子の新一年生たちに石を投げつけられて、痛かった。だから、ものを投げつけられるのは苦手だ。
でも、空き缶は淳一には当たらず、自動販売機のそばに転がった。
たぶん自動販売機の横に置いてある空き缶入れのゴミ箱を狙ったのだと思い、淳一はほっとした。
淳一はその空き缶を拾って地面に立て、自分が持っていたコーラの空き缶を並べて置いた。その二本の空き缶を地面すれすれに顔を近づけて眺めてから、空き缶入れのゴミ箱の丸く開いた穴にたて続けに二本とも入れた。
アルミニウムの乾いた音が二回響いた直後、淳一は声をかけられた。
「空き缶を拾ってごみ箱に捨ててくれてありがとうございます」
男の人の声だった。
淳一がそっぽを向きながら横目でちらり確認すると、見馴れたユニフォームを着ているお兄さんだった。
知らない人についていってはいけません。
このお兄さんはいい人です。
「毎日来ていますね」
おおひらドライビングスクールの教官の先生です。
「いつもコーラを飲んでいますね」
怒られているのではないみたいだけど、知らない人に話しかけられるのは苦手だから今日はもう家に帰ろう。淳一は教習所のユニフォーム姿のお兄さんに背中を向けたまま、そそくさと歩きだした。
ユニフォームの教官もまた、淳一のことをとくに気にする素振りも見せず、自動販売機で缶コーヒーを買うと、その場で飲みはじめた。
2
門倉明日美は今日も走っていた。
ここ三日間、毎日走ってばかりいる。
別に好きで走っているのではない。仕事だから仕方なく走っているだけだ。
「早太クン待って。待ちなさい。早太クンってば!」
四歳児クラスの瀬古早太は、その名のイメージ通りにやたらと足が速い。
少しX脚気味の両足を他の園児と比べて三倍ぐらいの勢いで回転させて走る。細かい歩幅を駆使する姿を見ていると、どこかにモーターがついているのかと思うほどだ。これが運動会の徒競走で速いのなら褒められるのだが、日常の生活のなかでの速さはとても困る。
一方の明日美はというと、幼い頃からずっと走るのが得意ではなかった。いや、体育の授業自体が苦手だった。
中学一年のときには先輩のカッコよさに憧れて一度は創作ダンス部に入部してみたものの、天性のリズム感の悪さは自分が思っていた以上で、ダンスではなく劣等感ばかりに踊らされた末、二ヶ月で退部した。それ以降はクラブといえば文化部ばかりで、高二の途中からはずっと帰宅部だった。本当は水泳部のマネージャーをやりたかったのだけれど……。
当然、子ども時代の徒競走ではいつもビリだったクチである。
「あすみ先生怒るからね!」
「あすみはいつも怒ってるじゃんかよぉ!」
器用に振り返りながら走る早太にさえ、明日美の足ではなかなか追いつけない。
「あっ、前まえ! 早太クン、ストップ!」
明日美の呼びかけに耳を貸そうともせず、早太は直角に曲がる廊下を直進して壁にぶつかり、跳ね返るように尻餅をついた。
「バッキャーロー!」
行く手をさえぎった壁に八つ当たり。力まかせに蹴りつける。その様子からして、とくに怪我もなさそうだ。
「ほら、だからストップって言ったでしょ」
転んでくれたおかげで何とか追いつくことができたと思いきや、早太は明日美の伸ばした手をするりとかいくぐり、懲りもせずまた駆けだしていく。
となれば、明日美はまた追いかけなければならない。
こうして追いかけっこはひたすら続く。
「待ちなさい早太クン、早太クンってば!」
明日美がこの保育園に看護師として採用されたのは、今年の四月半ばのことだった。
そのひと月前のこと。途中で辞めようかとあれほど悩んだ看護学校だったが、何をやっても中途半端な娘だと親に言われるのが嫌で、何とか気力を維持して卒業式を迎えることができた。
看護学校はあくまで専門学校であり、卒業生の就職率がそのまま新規入学生の獲得に影響を及ぼすので、学校側は当然のように進路決定に積極的だった。そのおかげか、同級生たちのほとんどは早いうちに配属される病院や医療関係機関が決まっていた。
そんななかで明日美は担当教諭の呼び出しを無視し続け、特別な就職活動をすることもなく、時の経過だけをひたすら待った。
何もしなかったのには理由がある。卒業だけはしたかったものの、看護師として働くつもりがなかったからだ。
高校時代に片思いしていた同級生が白血病で亡くなり、自分も何かしなければという焦りばかりが募り、一浪して入った女子大を中退。一念発起の思いで看護学校に再入学を果たした。嬉しかった。
だけどそれは一過性の感情に過ぎなかった。
看護学校では勉強もそれなりに頑張り、成績は中の上を自認していた。だから正直なところ多少は、いや、かなり自信を持っていたのだけれど。
三年の実習のとき、出向という名目で大学病院の外科病棟で見習いとして働いてみて、自分の最大の弱点をはじめて知った。
血が苦手だったのだ。
小さな怪我の処置をする程度であれば問題はなかった。ところが、看護師の手が足りないからと緊急手術に看護助手という立場で立ち合ったときのこと。大量の出血を目の当たりにした瞬間、目の前に飛び散った真っ赤な色が真っ白に変わり……気がついたときにはベッドに寝かされていた。
その後の明日美は、外科の医師たちから〈迷走神経反射のお嬢様〉と呼ばれた。
どういう意味なのかわからず、ナース室の資料棚に並んでいた医療百科で調べてみたところ、「何らかの原因で迷走神経が刺激されて副交感神経が必要以上に活発になると、末梢の血管が拡張して血圧が下がり、脈拍が遅くなる症状のこと」とあった。学校では習っていない内容だった。
たしかに私の症状はこれだったのかも。でもお嬢様扱いは勘弁して欲しい。そう思ったものの、立場が立場でもあり、不満を口に出すことはできなかった。
結局それまでの自信はどこへやら。自分は看護師として不適格。白衣の天使は諦めよう……。
そんな沈んだ思いを胸に、気分転換したくて一人でふらりとドライブに出た。
走っているうちに、ふと、あのマンションの屋上に行きたくなった。そこは、明日美を看護学校へと進学させてくれた北嶋和也が住んでいたマンション。片思いの最中、辛いことや悲しいことがあるときに必ず通っていた場所だ。北嶋が亡くなってからは一度も行っていない。けど、今はなぜか無性に行きたい。
そしてその屋上で偶然、自閉症の青年に出会った。
自閉症のことなんて何にも知らなかった私に、彼は〈自閉症〉を教えてくれた。
北嶋クンに似ていた彼の名前は、浅野淳一クン……。
淳一に出会ったことで少し元気をとり戻したものの、血を見たら倒れてしまうと思う強迫観念はもはや拭いようもなく、とりあえずは看護師資格の取得だけを目標にして、就職のことは一切先送りのまま、卒業の季節を迎えたのだった。
正社員採用のハードルが高い時代とはいえ、看護師不足は社会問題としてニュースにとり上げられるぐらいなので、卒業後であっても公立や大学病院以外であれば職場探しには困らなかった。少し探せばいくらでもあった。
でも、何ていうか、どうしても恐かった。
給料面で納得がいくかどうかなんて関係ない。夜勤の回数とかも関係ない。
それより何より看護師としての仕事そのものに嫌悪感を持つようになってしまっていた。
といって、無職でいるわけにもいかない。授業料ばかり払わせて親に迷惑をかけてきた身だ。何とかしなければ。どうせなら看護師でなく薬剤師を目指せばよかったなどと思いつつ、ハローワークに通った。医療関係のボードに貼ってある求人は、どれも病院関係のものばかりだった。
ため息をつきながら振り返ると……反対側のボードの右下隅に貼ってあった一枚の求人票に明日美の目は釘づけになった。
そこは福祉関係の職種のボードだった。
『パート看護師募集。社会福祉法人友愛会、なのはな保育園』
保育園で看護師が必要なの?
スマホで検索してみた。どうやら厚労省の少子高齢化対策の一環らしい。園内での子どもの健康や安全を守るため、看護師の専門性を活かした保健的対応の必要性が高まってきているのだという。
細かい理由など明日美にはどうでもよかった。保育園であれば大丈夫だ。子どもたちのすり傷切り傷程度の出血なら問題ない。大量の赤い血を見る機会などありっこない。そんな事故があったら保育園が大変だ。
面接を受けたら、呆気なく採用が決定してしまった。
前任の看護師さんがご主人の急な転勤で関西に引っ越してしまったとのこと。新卒であろうが未経験であろうが、資格を持っていることに意義があるらしい。私の正看護師資格なんて、学校で三年間頑張ったご褒美に過ぎないのに。
保育園での看護師の仕事内容には、とくに決まったものはない。園児の健康管理を担当するというだけで、具体的なことは自分で考えるらしい。
とはいえ、前任の方はかなり有能な看護師さんだったようで、保育園看護師としての仕事内容をマニュアル化してパソコンデータに保存してくれていた。そのおかげで直接の引き継ぎがなかったにもかかわらず、保育園内での明日美が看護師としてどうたち振る舞えばいいのか、だいたい予測することができた。
怪我や発疹や体調不良の園児の処置、通院の同行、乳児の検温、とくに0歳児の体調の観察、身体測定、内科および歯科検診の担当、職員の検便の担当、インフルエンザ等の流行疾患への注意と対策、救急箱チェック、保護者に配布する保健だより作成などなど。箇条書きの項目の数には圧倒されたが、すべてが毎日必ずしなければならない仕事でもないし、保健だよりは「なのはな便り」という保育園として毎月発行される広報紙に囲み記事としてまとめるだけ。作文が好きでない明日美でもそれほど苦にはならない。
四月中は0歳児の教室に入っての保育補助が主なる仕事となった。
育児の経験など当然あるはずもなく、保育の勉強もしたことがないので、当初はかなり不安でおっかなびっくり赤ちゃんと接していたのだが、主任保育士さんが四人の子を育てたベテラン先生だったこともあり、新米のお母さんを相手にするかのように明日美には優しく指導してくれた。一週間もしないうちに明日美は、オムツ替えのときのミルクのような匂いが大好きになってしまった。
そんな明日美の仕事内容が一変したのは、五月の連休明けからだった。園長の花岡峯子から四歳児教室の補助に入って欲しいと言われたのだ。
「門倉さん、あなた面接のとき障害児教育に興味があるって言ってたわよね?」
それが理由だった。
本当に興味があったわけではない。面接に受かりたいと思ったとき、ふと淳一クンのことを思い出し、つい口から出てしまった言葉に過ぎなかった。
四歳児の教室は全部で20人。それが10人ずつ二組にわかれており、それぞれを二人ずつの保育士が担当していた。明日美が補助に入ったのは〈コアラ組〉だった。コアラ組には瀬古早太がいた。
早太クンはこの四月から新規に入園してきた男の子だ。明日美が自分の最初の仕事として選んだのは、各教室をまわって園児たちの健康状態を把握することだった。彼のことはそのときから印象に残っていた。
他の園児たちが机に向かい、きちんと椅子に座ってお絵描きをしているなかで、彼一人だけが床に四つんばいになって画用紙を何枚も並べて、長い縦線と無数の横線を描いてあみだくじ遊びをしていたからだ。「大当たり~!」とか「残念賞!」と一人で大声を出してはしゃいでいた。きっと親のしつけが悪いんだろうなあ、そう思ったことを明日美は覚えていた。
とはいえ、そんな早太に障害があるようにはまったく見えなかった。だって、ちょっと見ただけではほんとうにごくふつうの男の子なのだ。
ふつうに会話もできるし、ふつう以上にしゃべるし、ふつう以上に口ごたえもする。
ふつうに給食を食べることもできる。ふつう以上に好き嫌いが激しいけれど。
いや、かえって他のお友だちより頭の回転が早いようにさえ思える。
でも違った。早太とはじめてつきあった初日に、思いっきり痛感した。
これはふつうじゃない!
障害というのとは違うような気がする。でもとにかく手を焼かされるのだ。何がどうとはうまく言えないのだけれど、とにかく〈何か〉がふつうの子と明らかに違う……。
「つかまえた」
水道の蛇口で水を飲みだした早太に、明日美は何とか追いついた。
「やめろよ!」
「痛いっ!」
背後から抱きしめるように体の前にまわした明日美の左手を目の前にして、早太は手加減することもなく思いきり噛みついてきたのだ。たちまち小さな歯形が赤く浮かびあがってくる。
「早太クン、噛まない約束したでしょ」
「約束なんかしてないよーだ」
「噛んだりしたら痛いでしょ」
「へーんだ、ぜんぜん痛くなんかないねえ」
「あ、そう。なら今度はあすみ先生が早太クンを噛んでみるけどいい?」
と、早太の顔色が一転。
「ぎゃーっ、やめてーっ! オレが可哀相だろ! 鬼! 悪魔! 白ブタ!」
白ブタ?……。
早太は、明日美や他の園児たちに対しては暴言を吐き散らし、遠慮なしに殴ったり噛んだりと攻撃を仕掛ける。にもかかわらず、自分が反撃を受けそうになったとたん、一転してこの世で最も不幸な被害者を演じはじめる。
「オレをいじめるのはやめてくださいよ」
ください? 舌の根も乾かないうちに、今度は敬語なの?
「いじめてなんかないでしょ」
「追いかけて来るじゃんかよ」
「逃げるからでしょ」
「つかまるといじめられるから逃げるんだよ」
「だって早太クン、目を離すと何をするかわからないでしょ」
「違う! オレは何にもしていない! 絶対ぜったいゼッタイ!」
懇願も束の間、早太はまた自信満々に口ごたえしてくる。
「しています。早太クンは悪いことばっかりしています。みんなに迷惑ばっかりかけてます」
「あ、わかった。あすみは悪魔だからオレを犯罪者にしたいんだ」
「あすみ先生は悪魔じゃありません。優しい天使です」
「ふーん、天使なんだ。ならきっと……」
今度はうつむき、両方の手のひらで顔を覆い、消え入りそうな声でブツブツつぶやく。
「え、何? よく聞こえないよ早太クン、今何て言ったの?」
何回か聞き直して、ようやく理解できた。
「……あすみはオレのこと嫌いなんだ。あすみはオレのこと嫌いなんだ。あすみはオレのこと嫌いなんだ」
同じ言葉を繰り返しながら、半泣き顔で鼻をすすっている。不思議なくらいにコロコロ変わる早太の感情の変化に、とてもじゃないが明日美はついていけない。
「あのね、早太クンが悪いことしなければ、あすみ先生は怒らないし、追いかけたりもしません」
「嫌いだからオレのこといじめるんだ!」
「いじめてなんかいません。あすみ先生は早太クンが好きだから悪いことをして欲しくないの。みんなと仲良く遊んで欲しいの。わかる?」
説得しようとすると逆効果だったりする。
「ほらみろ! オレのこと犯罪者にしてる。オレが可哀相だ!」
「可哀相なのはあすみ先生のほうです!」
「あすみのバカヤロー! あすみなんか死ね死ね死ね死ね死ねーっ!」
叫びながら水道の蛇口を全開にした。廊下はたちまち水びたしだ。
「早太クン、水をとめなさい!」
「うるせー! オレに命令するなーっ! 悪魔! 妖怪! 怪獣! 悪党オバケ白ブタまんじゅう!」
早太がまた足の小型モーター全開で駆けだした。
「待って、早太クン!」
「わーい、白ブタまんじゅう! こわ~い、白ブタまんじゅう! あはははははは!」
白ブタまんじゅう、というフレーズの響きが気にいったのか、早太はすっかりご機嫌だ。
二の腕を見ると、早太につけられた歯形が紫色に変色して腫れ上がってきている。出血するよりマシだと思うしかない。
こんなのもう嫌だ。勘弁して欲しい……。
早太の担当を任せられてから三日目のこと。
「もう無理です。限界です」
明日美は花岡園長に訴えた。泣きついたといってもいい。
「0歳児の教室に戻してください」
花岡は銀縁の細い眼鏡の奥にある瞳を書類から上げることもなく言った。
「じゃあ、早太クンを誰がみるの?」
「それは……」
「障害児を担当したいって言ってたじゃないの」
「早太クンは障害児なんですか?」
花岡は少し言葉を詰まらせたものの、当たり前のように言った。
「一般児枠のお子さんです。うちの園は障害児をお預かりしていませんから」
「わたしは、早太クンには何かしらの障害があるように思うんです」
花岡はこれ見よがしに首をかしげて、
「看護師さんだとわかるのかしら?」
とんでもない。看護学校では障害の細かいことなんて教えてくれない。看護と介護は別のもの。福祉でなく医療面からサポートするのが看護師の役目だ。
「早太クンのお母さんは少し難しいお子さんだとはおっしゃっていましたけど」
「少しだなんて!」
明日美の語気が思わず強くなる。
「見てください、これ」
花岡が顔を上げた。明日美は袖をまくり上げて左腕の歯形を見せた。
「早太クンに噛まれました」
「そう。よかったわ、他の子どもでなくて。看護師さんは自分で処置もできるし」
そういう問題ですか? という言葉を明日美は飲みこんだ。
「入園のときの面談ではどうだったのですか?」
花岡は書類の束をまとめてクリップではさむと、眼鏡を外して目頭を押さえて答えた。
「うーん、どうだったかしら? お母さんの問いかけにはちゃんと返事できていたし、おとなしく積み木で遊べていたし。立ち歩くことも特別ありませんでした」
そんなはずない。あり得ない。早太は止まっているときのほうが少ない。
明日美は保育園での看護師という立場を強調してみたが、花岡には、
「わかっています。しかし我が園の場合、手が足りないときには保育士さんのお手伝いをしてもらう。前任の看護師の先生にもお願いしてました。最初にお伝えしましたよね?」
と言い返されてしまった。たしかに面接のときに言われている。だけど……。
「まだ三日です。三日ぐらいじゃ何にもわからないと思うわよ」
とんでもない。一日でわかる。三日もすればふつうなら誰でも逃げ出す。
「もう少し頑張ってみて。お願いします」
結局、明日美の申し出は聞き入れてもらえなかった。
「保育士さんたちは一人で何人もの園児の面倒をみているの。それに比べて、あなたは一人だけでいいの。慣れの問題だと思いますよ」
花岡は他人事のように言い放った。
だけどよくわからない。障害児って? 障害者って?
たとえば淳一クンみたいなタイプを言うのでは?
淳一の通っていた幼稚園の園長だった吉田慎之助の言葉を思い出す。淳一クンは典型的な自閉症で、幼稚園では誰とも遊ばず、ずっと走りまわっていて大変だった。でも一人の世界のなかで走っていただけで、他の園児たちに迷惑をかけることはなかった。
早太クンはまったく違う。自閉症とは違う。迷惑のかたまりみたいな子どもなのだ。うっかり目を離すと、他の子どもたちに危険が及んでしまう。
そして、何かあれば私の責任になってしまう。
まいったなあ、私はどうしたらいいんだろう?
保育園に看護師として採用された明日美の場合、保育士たちとは待遇が違う。パートでもあり、残業はない。早番、遅番とも関係ない。定時には帰ることができる。
夕方には自宅に戻ることができて、家族と一緒に夕食をとることもできる。
「何なの、その傷……?」
母親が目ざとく明日美の腕の傷を発見し、素っ頓狂な声をあげた。
「犬に噛まれただけ」
「犬? 犬って?」
「犬みたいなもの。というか、猿かも知れない」
犬や猿のほうがまだましだ。私が桃太郎に徹すればいいのだから。
早太に対しては、何をどうすればいいのだろうか。さっぱりわからない。
とにかく今は誰かのアドバイスが欲しい。そう思いながら、部屋に戻った明日美は机の引き出しをかき回した。たしかこの中に入れておいたはずなのだが。
あった! 一番奥の片隅に。よかった……。
そのメモ書きには、丁寧な文字で電話番号が綴られていた。
電話をかけると、四回目のコールで相手が出た。
「あの、もしもし、ハル子さん……ですよね?」
温かくて優しくて懐かしい声が戻ってきた。吉田ハル子と話すのは一年ぶりだ。
「わたし、門倉明日美です」
あいにく慎之助は不在だった。夕食後のウォーキングが日課になっているとのこと。
明日美は、専門学校を卒業して保育園で看護師として働き始めていることを伝え、担当を押しつけられてしまった早太の状況をかいつまんで話し、慎之助に相談したいと告げた。
ハル子は、慎之助の予定を確かめることもなく、今度の日曜日の午後に遊びにいらっしゃい、と言ってくれた。
吉田夫妻の自宅までは市営バス一本で行ける。
保育園には自転車で通勤している。バスに乗るのは久しぶりだ。
そして、その久しぶりのバスが久しぶりの場所へさしかかった。免許を取るために数えきれないくらい通った場所。大平ドライビングスクール……。
「……うそ!」
明日美は目をパチクリした。久しぶりついでというわけでもないだろうが、久しぶりの人物が窓の外にいた。
彼とは一年前のあの日以来だ。
病院の駐車場で吉田夫妻と別れてから横浜まで戻る途中、街道沿いの大型玩具店に立ち寄って、彼が海に落としてしまったのと同じステップワゴンのミニカーを買ったっけ。
そんな彼が……自動販売機の横に立ち、コーラを飲みながら教習所を眺めていた。
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