分かりあえない部分があることすら分かち合う
きょう、人と話してた。
別の人との関係性のなかであったことを話しながら
『(経験・未経験や立場的に)
お互いに分かり合えない感覚や部分があること
それ自体を分かち合うことも、
お互いに分かり合うことだよね。』
って気づいた。
2人で「それな!」って言って笑った。
そんなことを色々お話しながら、
『こうして、きもちを話して、
「外在化」することで
誰かといっしょにきもちを見つめていける。
お互いがお互いの中身に対して心をよせ、
その自分のなかでの理解がまた整理してされてく。
ってこういうことなんだろうな🤔』
とおもったよ。
ひとの感覚やきもちを
「同じようにわかる」ってことはできなくて
経験してるものや
関わりの立場的に見てる側面の違いから
感覚や返答にズレを感じることだってある。
なんなら、全然すりあわないときもある。
いくら近づこうとしたって
近づくとか思いを馳せるのが限界で。
どこまでいっても漸近線みたいに交わらない
想像できない・分かれないことも
あるんだなといつも思う。
話して伝えるほど
近づくほど関わるほどに見えてくる
人との「感覚の溝」。
いままでは、違いから生まれる溝を感じて、
世界が嫌になって
経験が嫌になって自分なんか。と思ってた。
だけど。
お互いに分かり合えない部分があるんだ。
ってことを認識して
分かり合えないことがあることさえも
そのままにして分かち合えるくらいにできれば、
それも分かり合えたってことの一つになって
最高なんじゃないかと思ったよ😌🌱
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