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『子どもアドボカシーと当事者参画のモヤモヤとこれから』

発行からすこし経ち、遅ればせながらですが、
『子どもアドボカシーと当事者参画のモヤモヤとこれから』を読了📕

とにかく読みやすく、言葉も分かりやすかった。
宮地先生の環状島モデルのイメージとともに書かれているんだけど…すでにそれを読んでいたこともあり、より理解が深まった。


・声や自己コントロール感を取り戻す、エンパワメントすることが目的であること
・当事者のぜい弱性・被害者性を勝手に判断され、周りが前のめりにやる意思決定
・85.86頁の2事例
・コントロール権を奪われ続けた先にやってくる「自立」、自己ハンドリングの難しさ
・支援者はいつでも〈外斜面〉から〈外海〉へ当事者が生きる世界から去れるが、当事者はそうはいかない。支援者もまた「いつでも去れる」なかで、その場に居続けることへのしんどさ
・当事者の声の消費や搾取について
・独立の必要性について        などなど。

この辺はとくに、いろんな支援者医療者に会ってきた当事者としても、ひとりの人間としても共感しかなかった🥺
ただ話しただけのことも、相談や解決とごっちゃにされてきた(逆も)、私からすると「困りごと」「やりたいこと」「わかちあいたいこと」を分類する構造の部分も、共感🥺


とにかく大切なことが散りばめられている。そして読みやすい!今、また防御カスケードの低覚醒(トラウマ下での反応)で本が読めず、何冊も積読してる私でもスイスイスイーって☺️


救われたのは、「私たちは必ずしも社会への発信・参画を目指してはない。 まずは、奪われてしまった声を取り戻すこと。」の一文。

支援者や医療者と出会うたびに、格や感覚がちがう溝があると痛感させられてきた。生きてきた世界が違いすぎるなぁーと当事者としての内海にザブザブと引き戻され、自己コントロール感を喪失する。
思いを伝え、経験を語り、声を上げるのは簡単ではない、軽くない。ときに疲れ、ちがう畑で生きれたらラクだろうなと考える。

そんななかで、声を上げることを強制されない。
尾根からすこし下りて、内斜面や波打ち際ギリギリにもいける。行きつ戻りつメンテナンスしていいんだよ。ってやさしく言われてる気がした、救われた😌🤲
ってかその行きつ戻りつこそも、当事者参画においての自己コントロールなのかもなぁ〜なんて思ったよ💃
いまの私でもちゃんと文字が入ってくる本だった。

同時に、
当事者性よりも専門性よりも失いたくないものは、やっぱり人間性だなぁ。それ私はいつも思ってるな。と再確認した…

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