(チラ裏レビュー) 関心領域 (映画 2023年)

※)これは”チラ裏”レビューです。あまり十分な推敲もしておらず、本来はチラシの裏にでも書いて捨てるレベルの駄文ですが、ここに書いて捨てさせていただいております。この先は期待値をぐっと下げて、寛容な気持ちでお読みください。ではどうぞ。

作品名:関心領域 (映画 2023年)
評価:★4(★★★★☆)
リンク:https://happinet-phantom.com/thezoneofinterest/

 先日(5月24日)に公開が始まったばかりの映画「関心領域」を観てきた。平日の鑑賞だったが公開初週ということもあってかなかなかの客入りで、年齢層は高めだった。

【作品概要 (公式ページより)】 空は青く、誰もが笑顔で、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から煙があがっている。時は1945年、アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた。第76回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝き、英国アカデミー賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞、トロント映画批評家協会賞など世界の映画祭を席巻。そして第96回アカデミー賞で国際長編映画賞・音響賞の2部門を受賞した衝撃作がついに日本で解禁。 マーティン・エイミスの同名小説を、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』で映画ファンを唸らせた英国の鬼才ジョナサン・グレイザー監督が映画化。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わすなにげない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。その時に観客が感じるのは恐怖か、不安か、それとも無関心か? 壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らの違いは?

この作品にはストーリーと呼べるようなものはほぼなく、概要だけでほとんど内容が説明できてしまっている。したがって劇場では長い時間をかけてこの家族の日常を眺めながら、隣のアウシュビッツ収容所から聞こえてくる環境音をただ聞くだけとなり、映画としてはさすがにちょっと退屈だと感じた。

この映画ではアウシュビッツ収容所の中で行われていた残酷な行為は一切画面に映らず、それは隣の収容所から聞こえてくる環境音としてのみ表現される。しかもその音量がかなり控えめで説明的なものも少ないため、収容所の中を想像するのには一定の知識と集中力が必要だ。ストーリーも退屈なのでスマホが近くにあったら思わずスマホに手を伸ばして「ながら鑑賞」になってしまうと思うので、もし配信が始まったとしても自宅での鑑賞は難しい。劇場でしっかりと向きあって鑑賞するのがおすすめだ。

Wikipediaによると、監督・脚本のグレイザーはこの映画のねらいについて以下のように語っている。

ホロコーストを実行した者たちがしばしば「ほぼ神話的なまでに邪悪な」者たちとして描かれていると指摘し、そういった点について神話性を除去して明確にする映画を作ることを志していた。ホロコーストの物語を、「過去にあって現在には関係しない何か」としてではなく、「今、ここでの物語」として語ろうとした。自身のアプローチについては、グレイザーは、「私たちは、自分ではそんなことはないと思いたがっているかもしれないが、感情的にも政治的にも、ホロコースト実行者のカルチャーに近いのだ、ということを示すことによって、自分たちを『安泰ではない』という気持ちにさせる」ような映画(にすることを目指した)

…この映画のねらいについては理解するのだが、じゃあ、この家族はどうしたら良かったのか?この家の主人であるルドルフ・ヘスがアウシュビッツ収容所所長を辞すれば良かった?そうしたら代わりの人がその任務につくだけだ。ユダヤ人から奪った衣服や金品を嬉々として分け合っていたのが良くなかった?ユダヤ人から奪ったことが問題なのであって、既に奪ったものを自分のものするのか売って金に換えるのか捨てるのかは被害者のユダヤ人には何の違いもない。

ユダヤ人を実際に救うには、「シンドラーのリスト」や杉原千畝みたいに自らの地位や生命を危険に晒してでも正義を貫く行動を起こさねばならなかった。家族がいれば、家族にまで危険が及ぶ。普通はそこまでのことはできない。

それでもルドルフ・ヘスとその家族は、せめてもの良心的行動(?)として、収容所所長を辞して、仕事も環境もホロコーストから直接の受益がない地域まで逃げるべきだっただろう。ただし、それはユダヤ人を救うためというより「ホロコーストに直接加担して利益を得ていた」という罪から逃れるため、つまり自分たちのためだ。

この映画のテーマはたぶん「無関心の罪」だと思うのでそれについて論じると、アウシュビッツから遠く逃れても「無関心の罪」からは逃れられない。収容所の塀によって視界に入らないようにするのか、距離を置いて視界に入らないようにするのか、無関心でいることを手助けする要素が異なるだけだからだ。むしろアウシュビッツから自発的に距離をとることは「積極的無関心の罪」としてより重い罪を問われるまでありそうだ。

この映画は答えのない問いを投げかけている。この映画を観た人の99%までが「考えさせられた」などと宣いそうだが、ではそういう人に「あなたがルドルフ・ヘスだったらどうしていたか?」と問うたらどう答えるか?たぶん納得のいく答えは出てこないと思う。映画が答えのない問いを投げかけて、観客はたいして何も考えてないくせに何となく何かを得た気になって「考えさせられた」などと宣う。そこにちょっとモヤってしまう。

では、私はこの映画を通じて何を「考えさせられた」かというと、とりあえず「塀」の効能の大きさについてだけは痛感した。「塀」の威力はすごい。

ヘス一家は収容所からの音や”煙”などでそこで何が行われているかを情報としては知っていた。そしてヘス一家はサイコパスではない普通の感情を持った人間だ(そういうことにする)。この前提で、人類史上に残る大虐殺が行われている隣の土地でなぜ幸せな家庭生活を営むことができたのかといえば、それはひとえに「塀」のおかげだ。情報として知っていることと、それを直接目撃することは心理面には大きな違いがある。

普段の生活でだって、高所恐怖症の私がエレベーターに乗っても平常心でいられるのは、自分がいま足が竦むほどの高さに吊るされていることが床板で隠蔽されているからだ。エレベーターの床が透明な素材でできていたら、とてもじゃないが恐ろしくてエレベーターには乗れない。

世界平和を実現するのにもっとも大切なのは隣人愛や一期一会の精神だと、私は常々考えている。パレスチナとイスラエルの問題も、2つのコミュニティが近くに住んでいながら、交流を持たなくなってから一気に関係が悪化したという説がある。人間はふつう、普段の生活を通じて交流している隣人に対して人道に外れた酷い仕打ちはできない。ところがそこに「塀」が一枚できるだけで、隣人の生活は一気に遠い世界の出来事になる。こうなるともう、隣人愛による歯止めが効かなくなる。

ひとりの人間が発揮できる善行の量には限りがあるから、遠いアフリカの地で飢えている子供に対して無関心であることは仕方がない。けれどせめて、今、隣にいる人に対して一定の思いやりをもって接することができるくらいの人間ではありたい。ところが「塀」はその最低限の良心を発揮する機会すら奪う。これこそが「塀」の持つ非人間性だ。

この映画を観た人の多くが、「無関心は罪であると考えさせられた」「ロシア・ウクライナやイスラエル・ガザ地区の戦争に目を向けたいと思った」と言うだろう。浅はかな考えであり、典型的な偽善だと思う。日本から世界の果ての戦争に関心を向けたところで、その戦争に1ミリの影響もありはしない。そりゃ全くのゼロとは言い切れないけど、10のマイナス20乗とか、地球の裏側で蝶が羽ばたいたくらいの影響が関の山だろう。

我々が真に反省すべき無関心は、近くにいる家族や隣人に対する無関心だ。世界の果てにいる不幸な人たちの心配をしているふりをする前に、飽き飽きした家族にちょっとでいいから愛情を示そう、近所の人に挨拶しよう、宅配便の配達員や店員にありがとうと言おう。それが世界平和に繋がる。

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