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蓮の匙

  このところ急に冷え冷えとして、西日の照りも光の塊のような夏場と違って厚みをなくし、柔らかに日暮れてゆく。しみじみと秋の描写をしたもののそれよりも早く、その日暮らしに変化をもたらしたのは、夕食は湯豆腐がいいなと思ったことだった。
 その気になれば一年を通していつでも食べることはできるが、今頃は、湯豆腐だけをふと食べたいと思う。湯豆腐の支度をしていて、食器棚の引き出しからチリレンゲを取り出してテーブルの上に並べた。

 ふと気になったレンゲとも呼ばれるこの匙は、漢字で散蓮華と表せば、突然厳かな様子を見せる。ありふれた食事の中で、蓮華の散った花びらを手にして食べるという、説話性のある空間が現れる。蓮華は言わずとも仏教経典の中で比喩として、また象徴として限りなく語られ続け、他のものに取り替えることのできない花の名である。

 浄土三部経のうちの観無量寿経のなかでは、遠いものをみることのできない平凡な人間が仏国土を観想する方法が、釈尊によって順番に説き明かされている。西日を観る最初の観想から始まり、六番目までの観想を経てから七番目の観想は、花の座の観想と呼ばれる。
 その観想は、想像を越えた数え切れないほどの多さと輝きそのものを表現した細かな様子に従って、七種の宝石でできた大地のうえに蓮華、珠、光、台、旗ぼこをそれぞれ観想し、鏡の中の自分の顔をみるように、その映像がはっきりとしているようにするとある。

 日常使われる食器で、そんな世界にも現れる蓮華の花びらのかたちに似せた匙に相当する名をもつものは、他に思い当たらない。普段の生活の中には、不可思議な世界があえて言わず入り込んでいる。

©松井智惠
1994 10月24日筆  2022年10月27日改訂 
1994年10月28日 讀賣新聞夕刊『潮音風声』掲載

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