アートについてのモヤ

 ずっと気になっている「アートプロジェクト」についての雑念を書こうかとおもう。ネットのおかげで均質化された情報が沢山ありすぎて、このところ美術の現場がどうなろうとしているのか、わからなくなってきているからだ。

 数年前から、いや今もこの感染症の影響で、アートと地域との関わりをプロジェクトにすることが続いている。しかし私が思うには、アートの力で地域の本質は変わらない。人が集まり街が歩きやすくなったり、過疎地に観光客が訪れたとしても、土地の磁場はアートの力よりもはるかに強い。土地の上で、アートは間借りさせてもらっているという風に思った方が良い。

 例えば「アートの力」によって地域が変わったとしても、以前と比べて何がどう変わったのか。巷で言われる「アートの力」とは具体的に何を指すのかを明瞭に、語られているのを聞いたことがほとんどない。アートはもちろん世の中での「力」を持っている。当たり前のように、そこには手に負える力と手に負えない力が含まれている。

 現在人々が注目している社会でのプロジェクトは、アートに求める手に負えない力を、手に負えるように変換する技術が生まれたということなのではないかと、ふと思う。それにしても、一体変わるものは何なのか。何をどう変えたいのか。パブコメを書こうとしてふと考えざるを得なくなった。
 コロナ禍で観光を伴う芸術祭は、自然淘汰されるであろうし、これから留めなく増えるシャッター街と空きビルは、リノベーションが追いつかなくなるだろう。工事中の外壁に絵を描いて、これがアートだと言われればそれまでだ。仕事になるなら大歓迎だが。
 少なくとも、「現代アート」の時代は終わった。ネット上では、時間軸が歪んだ大量の作品とプロジェクトが流通する。それでも、私は未知を夢見て、厚かましく諦め悪く、ジタバタ日々生きるのだろう。

2021年3月6日

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