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10_「しかし見よ、主の深い憐れみは、信仰があるために主から選ばれたすべての者のうえに及び、この人たちを強くして自らを解放する力さえ与えることを、わたしニーファイはあなたがたに示そう。」(1ニーファイ 1:20)

ニーファイは、1章の最後で「しかし見よ、主の深い憐れみは、信仰があるために主から選ばれたすべての者のうえに及び、この人たちを強くして自らを解放する力さえ与えることを、わたしニーファイはあなたがたに示そう。」と述べ、リーハイをはじめ家族や自分自身の『自らを解放する』経験を書き始めました。

それでは、まず、「主の深い憐れみ」が及ぶとはどのようなことかみていきましょう。デビッド・A・ベドナー長老は,「主の深い憐れみ」がわたしたちの生活の中でどのように表されるかについて説明しておられます。

「主の憐れみはきわめて個人的です。それは主イエス・キリストから,主を通じて,一人一人の必要に応じた祝福,強さ,守り,確信,導き,愛と思いやり,慰め,支え,そして霊的な賜物として注がれます。…主の深い憐れみは,無作為に注がれるものでも,偶然に示されるものでもありません。忠実さと従順さによってこの重要な賜物を受けることができ,多くの場合,主の御心にかなったときに,それらに気づき,その価値を認識することができるのです。」

(『リアホナ』2005年5月号,pp.99-100)

それでは、次に「自らを解放する」とはどんな意味でしょうか?

私は長年、カウンセラーとして働いていますが、わたしのところに来られる方々の多くは、家族や友人、職場や地域社会・教会など周囲の人たちとの人間関係で何らかの悩みを持って生活しておられる方々です。また、仕事のストレスで心をすり減らして健康を損ねてしまっているだけではなく、精神的な病いにまでなってしまう方々もおられます。また、自分では到底解決できないような大きな問題に直面して不安や恐れによって心が落ち着かない経験をされている方々もおられます。また、自分の弱点や欠点でコンプレックスを感じたり、それを受け入れることができず落ち込んだり、考えすぎたりされている方々もおられます。

しかし、イエス様は、次のような言葉でわたしたちを解放へと導いてくださいます。

「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして、真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。』」

(ヨハネによる福音書8:31-32)

イエス様の教えに従うことによって知る真理とは、究極の真理、人間が存在する根幹にかかわる真理です。まず、福音を知り、受け入れ、信じるとき、神様に愛されていることを知るようになります。そうすると孤独感は消え、全能の神様に守られているという心の平安と安心感を持つことが出来るようになります。それでわたしたちは恐れや不安から解放されるのです。

また、究極の解放は、罪からの解放、罪から清められ、霊的に癒されることです。イエス様を受け入れ,悔い改めて戒めを守ることによって,イエス様から赦しを得ることができます。イエス様の贖罪を通じて,また、福音に従って生活することにより,罪から解放され、喜びを持ってイエス様のような特質を身につけ、ふさわしい者となることができます。

モルモン書には、そのような人々の経験で詰まっています。L・トム・ペリー長老は、次のように語っておられます。

「モルモン書に記されている話の多くは,解放に関する話です。リーハイが家族とともに荒れ野へ立ち去ったのは,エルサレムの滅亡から救い出されるためでした。ヤレド人の話は解放についての話であり,ミュレク人の話もそうです。息子アルマは罪から解放されました。ヒラマンの若い兵士たちは戦いで救われました。ニーファイとリーハイは獄から救い出されました。解放というテーマは,モルモン書の至る所に見ることができます。」

(『リアホナ』2012年5月号, p.94)

*あなたもこの『モルモン書』を通して、その登場人物の経験から学んで、「主の深い憐れみ」を感じ、「自らを解放する」方法を知ることができるのです!


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