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20_「さて、父は、荒れ野にとどまっていたときに、わたしたちに次のように言った。『見よ、わたしは夢を見た。別の言葉で言えば、示現を見た…』」(1ニーファイ8:2)

この部分、リーハイの夢(示現)について考えるために、まず、デビッド・A・ベドナー長老の言葉をご紹介いたします。

「…リーハイの示現には,キリストのもとへ来るようすべての人を招くというモルモン書全体のテーマが非常によく表れていることです……木の実は〔イエス・キリストの〕贖罪の祝福を象徴しています。その実を食べることは,儀式と聖約を受けて,贖罪が生活の中で完全に有効になることを指します。」

(『リアホナ』2011年10月号, p.34)

ここで、デビッド・A・ベドナー長老の言葉の続きを読んでみましょう。
キリストのもとに行く」という点について注意して読んでみましょう。

父リーハイは示現の中で4つのグループの人々を見ました。3つのグループは木とその実を手に入れようと,細くて狭い道を押し進んでいました。4つ目のグループは木を求めようとはせず,大きく広々とした建物を最終的な行き先にすることを望みました(1ニーファイ8:31-33参照)。

ニーファイ第一書第8章21から23節では,1番目のグループの人々が押し進んで来て,木に通じる道を歩き始めたことが記されています。その人たちは「悪魔の誘惑」を表す暗黒の霧に遭遇し(1ニーファイ12:17),道を見失い,迷って姿が見えなくなってしまいました。 

ここの聖句では鉄の棒について何も書かれていないことに注目してください。神の言葉を無視したり,軽んじたりする人は,救い主のもとへ通じる道を指し示す神聖な羅針盤を利用することができません。このグループが道にたどり着き,押し進んでいたことを考えてみてください。キリストを信じる信仰と霊的な確信をある程度示していたのに,悪魔の誘惑のために道をそれ,姿が見えなくなってしまったのです。 

ニーファイ第一書第8章24から28節には,命の木に通じる細く狭い道に進んだ別のグループの人々について記されています。この人々は「鉄の棒にすがりながら暗黒の霧の中を押し進み,ついに進んで来てその木の実を食べ」ました(24節)。しかし,大きく広々とした建物にいる非常に華やかな衣服を身に着けた人々にあざけり笑われると,「恥ずかしく思い,禁じられた道に踏み込んで姿が見えなくなって」しまいました(28節)。この人々が「鉄の棒にすがりながら」進んでいたと記されていることに注目してください(1ニーファイ8:24)。 

重要なのは,2番目のグループの人々が信仰と決意をもって押し進んだことです。この人々にも鉄の棒という祝福があり,それにすがっていたのです!しかし,迫害や逆境に遭うと,禁じられた道に踏み込んで姿が見えなくなってしまいました。信仰と決意と神の言葉がありながら最終的に姿が見えなくなってしまったのは,聖文を時折読んだり,研究したり,調べたりするだけだったからかもしれません。鉄の棒にすがるとは,一貫して継続的に神の言葉に没頭するのではなく,むしろ時々「突発的に」勉強したり,不定期にほんの少し読んだりする程度のようにわたしには感じられます。 

30節には,「しっかり鉄の棒につかまりながら道を押し進み,ついにやって来ると,ひれ伏して木の実を食べた」3番目のグループの人々について書かれています。この節で重要なのは,しっかり鉄の棒につかまりながらという言葉です。 

3番目のグループも信仰と確信をもって押し進みました。しかし,彼らが道をそれたり,禁じられた道に踏み込んだり,姿が見えなくなったりしたとはどこにも書かれていません。たぶんこの人々は常に聖文を読み,研究し,調べていたのかもしれません。恐らく,一見「小さな,簡単なこと」に対する勤勉で献身的な態度がこのグループの人々を破滅から救ったのでしょう(アルマ37:6)。忠実に聖文を研究することで「主を知〔り〕」「真理を知るようになっ〔て〕」,謙遜という霊的な賜物を得ることができたのでしょう(アルマ23:5,6)。「ひれ伏して木の実を食べた」ことに彼らの謙遜さが表れています(1ニーファイ8:30。強調付加)。たぶんこのグループは継続的に「キリストの言葉をよく味わ〔う〕」ことによって霊が養われ,強くなったので(2ニーファイ31:20),大きく広々とした建物にいる人々があざけり笑っても気に留めずに済んだのでしょう(1ニーファイ8:33参照)。このグループこそ,皆さんとわたしが属するように努力すべきグループです。

ニーファイの兄たちは「あの木の所に通じている,父が見た鉄の棒は何を意味するのか」と尋ねました。「〔ニーファイ〕は兄たちに,それは神の言葉であって,だれでも神の言葉に聞き従って,それにしっかりつかまる者は,決して滅びることがなく,また敵対する者の誘惑や火の矢も,彼らを打ち破って盲目とし,滅びに至らせることはないと言った。」(1ニーファイ15:23-24)

それでは,鉄の棒にすがるのと,しっかりつかまるのにはどのような違いがあるのでしょうか。鉄の棒にしっかりつかまるというのは,おもに,聖文をよく祈って,常に,熱心に用いることを指すと思います。聖文は,啓示された真理の確実な源であり,また命の木へ,すなわち主イエス・キリストのもとへ続く細くて狭い道を旅するための信頼できる案内書です。 

「そしてわたしは,父の見た鉄の棒が生ける水の源,すなわち,命の木に導く神の言葉であること……を知った。」(1ニーファイ11:25)

(『リアホナ』2011年10月号, p.34)

ダニエル・L・ジョンソン長老は、自分自身がどのグループに属しているのか吟味するように勧めておられます。 

3つのグループについて考えるとき、自分自身を吟味して自分がどのグループに属しているのかを理解し、そしてどのグループに属したいと思うかを自問するとよいでしょう。

ブリガム・ヤング大学アイダホ校でのディボーショナル説教
“Continually Holding Fast to the Rod of Iron”,  May 12, 2015

その他のリーハイの夢(示現)の解釈は以下を参照してください。

インスティテュート『生徒用資料 宗教コース121-122』, p.20


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