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ちょっと休憩、雑多コラム

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訪問看護師ではなく、私として・母として・妻として・親にとっての子どもとして・人としての話。
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#日記

今、ここにあるリアルを五感で感じる

目覚ましに起こされずに起きた コロナ禍になって2度目のゴールデンウイークの朝。 家族はまだ眠っている。 ウオーキングに出かける。 音楽は聴かない 携帯は持たない 1人で歩く。 生まれたての緑色をした公園の木々 子どもたちがお気に入りだった滑り台は新しくなった 鳥たちの声 グランドには朝の陽ざしに映える野球少年のユニフォームの白。 公園を抜け アカツメクサの草むらを横目にまっすぐ進み 海沿いの遊歩道に出る。 空気の匂いが変わる。 右手のCOLUMBIA号の赤の煙突は相変

「お母さん、私、覚悟できたよ。」

「お母さん、私、覚悟できたよ。」 娘の答えは、即答だった。 そして、その言葉は明快で迷いがなかった。 いや、むしろ覚悟ができていないのは、私の方だった。 しない方がいい理由。 選ばないことでの利点。 安全安心な道を歩いて欲しい。 そんなことばかり、思いつく限り探していた。 「とてもいい考えだけれど、大丈夫だろうか。」 「もう少し、良く考えた方が良いのでは。」 「チャレンジも必要だけど、確実なところを目指した方が安全では…。」 ー心配だからー ー幸せになってほしいからー

この時期お決まりの、子どもたちの保護者面談が終わった。

いつの間にか夏になった。 コロナによって仕事や生活スタイルが今までと変わってしまったせいか、1日1日や1週間が長く感じるのに、過ぎてしまえば随分と早い。 「お母さん、『何でもそこそこ出来る』ってことは、何の特技も無いってことなんだよね。」と言っていた長女は、今年高校3年。 コロナの影響で、吹奏楽部最後のコンサートは中止となり、何となく、いつの間にか引退となり、学校へまともに登校できるようになったのは6月だった。大学進学フェアはZOOMで参加し、オープンキャンパスもWEB開催

相手を「変えようとする」のではなく、「相手を受け入れる」ことについて

私は、仕事中は事実だけを事実として受け止め、そこに自分の価値観や感情を付加しないよう、気を付けている。 こんな風に ↓ 「〇〇さんは、〇〇〇〇〇と言いましたとさ~(昔話風に)」 事実は「事実だけ」なのだ。 〇〇さんは、〇〇〇〇〇と言っただけなのだ。 そこに、「~だから良い」「~だから悪い」「~だから好き」「~だから嫌い」など、自分の価値観や感情を付け加えるから、ややこしい事になってしまう。そんなことは重々承知のはずだった。 今年に入り、私は新型コロナウイルス感染症の影響

私は、自分のことがずっと嫌いだった。

急に思い出したことがある。 看護学生の頃、保健所の地域看護実習。 実習指導者さんと実習以外の他愛もない話をしていた時、たぶん私の話をした時だった。 その実習指導者さんは男性だったか、女性だったかすら忘れてしまったけれど、私に向かってこう言われた。 「自分を大切にできない人は、他人の事なんか大切にできないよ。」 ・ 看護師を目指しているのは、手に職をつけ自立して、一刻も早く親の元を離れたかったから。 看護師そのものに興味がなかった訳ではないけれど、私は親から逃げるた