孤独について
電車に揺られながら、サガンの『愛と同じくらい孤独』を読んでいた。着席率は90%程度で、立っている人は疎らである。自分が座っている列は詰まっていて、左の女性は目の前の女性と談笑していた。
途中の駅で、右隣の男性が降りた。つまり自分が右にズレれば、左の女性二人組は並んで座れることになる。こういう場合、私は特に理由がなければ0.01秒で移動するのだが、ふと自分の尻の温度が気になった。
夏である。代謝がいい方ではないが、かれこれ20分ほど座っている席は、自分の尻の熱がしっかり伝わっているはずだ。別に気にすることではないのだが、そのことが頭に過った途端、右にズレるのが少し怖くなった。
他人に「自分の尻の温度」を知られた状態で、まだ10分ほど隣に居続けなければいけない。それがどうにも居心地悪く感じられた。こうして反応が遅れたせいで、右隣の空席に新しい男性が座り、尻の温度を座席に移動させはじめた。左の二人組は談笑を続けている。狭量な男だと思われただろうか。違うんです、譲らなかったのは尻の温度のせいなんです。名前も知らないあなたに、私の尻の温度を知られたくなかったんです。そう説明したら、場合によっては鉄道警察が出動するだろう。私は静かに新潮文庫に目を落とすほかなかった。
誰かと悦びを分かち合ったり、誰かの不安を理解することは、人が生きていく上で大切なコミュニケーションだ。どんな些細なことでも、近しい人と共有することで、それは「体験」となる。一方で、まったく誰にも話さないような出来事は、記憶に残りづらい。あなたは誰にも話していない出来事をいくつ思い出せるだろうか。
尻の温度を気にして反応が遅れたことを、私は誰に伝えたいのだろう。なぜこうして書いているのだろう。私は本質的に孤独を嫌っているのだろうか。割と一人が好きだと思っていたが、この出来事を誰かに伝えないと、それが「体験」にならないと悟ったとき、無性に寂しくなってしまった。
スマホで風景の写真を撮るとき、万舟の的中画面をスクショするとき、ツイートに「いいね」を押すとき、本の感想をブログに書くとき、今日も暑いねとLINEするとき、親の体調を心配するとき、
尻の温度を気にした自分を嗤ったとき、それをこうして文章にしているとき、自分はまったくもって孤独ではないのだと知って、少し気恥ずかしくなったのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?