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自己欺瞞わーるど。


 誰もが退屈な日常に辟易としている。時間を金に換えては金で時間を買い、代わり映えしないコミュニティで毒にも薬にもならない会話をして、日々は同じことの繰り返しで過ぎてゆく。
 平和が一番だと言いながら、いざ平和にどっぷり浸かるとそこがぬるま湯に感じられて、退屈に抗う本能が顔を出す。「暇つぶし」という言葉を眺めてみると、その人間の本性がよく分かる。暇はつぶすものなのだ。あってはいけないから何かで埋める。暇と退屈はブランクで、それがない人生の方がありがたいと、心のどこかで思っている。

 ギャンブル市場の隆盛に比例するように、ギャンブルの配信が盛んだ。博奕は、それそのものが退屈を塗りつぶす遊戯であり、さらにそのひとときを盛り上げようと演者が知恵を絞り、ブランクを何かで埋めたい視聴者が集う。シビアな的中よりも劇的な不的中が好まれるのはそのせいだろう。ギャンブルそのものをドラマにして、それはコンテンツとして消費される。

 そんな中で、配信者の的中画像に捏造疑惑が浮上した。浮上させたのは元ホテとかいう胡散臭いアカウントである。彼もまた、暇を何かで埋めたい悲しきホモサピエンスなのだ。
 前述したように、視聴者は娯楽に飢えている。予想の才能とか、演者の人間性とかに興味があるのはごく一部だろう。求められるのは娯楽。それも、なるべく退屈を紛らわせてくれるような質のいい娯楽だ。演者はその需要があるから、なるべく刺激的なエンタメを提供できるように、リアルマネーでの投票をする。そのライブ感に視聴者は熱狂する。
 だから、それらがやらせだと分かると、オーディエンスはこう言うのだ。話が違う。

 嘘には二種類ある。他人に向けた嘘と、自分に向けた嘘だ。後者は自己欺瞞と呼ばれたりする。
 自己欺瞞の根本にある心理について、個人的にひとつの仮説を持っている。それはこの文章で書いてきたことと繋がるものである。一言で表すなら、自分の人生が退屈なものであると認めたくない。ありきたりな自分、そこから生まれる圧倒的な退屈は、人にとって純粋な恐怖なのだ。
 的中画像のしょうもない捏造にしても、自分はこのくらいのレートも平気で賭けられるんだよ!という自己欺瞞から行われているような気がしてならない。もちろん、配信者は視聴数で得をすることもあるだろう。そのために嘘をつくインセンティブはある。しかし、それは嘘が副次的にもたらす効用に過ぎない。頭の中でそろばんを弾いて嘘をつくのではなく、心の底から己の凡庸さを恐れているのだ。

 人に対してつく嘘に比べて、自己欺瞞は根深い。多くの研究によれば、自分で自分を騙しているときの脳の動きは自分自身でもうまく認知できないという。ある意味、それは本能に近い。
 本能をコントロールするのは理性だ。長い間、嘘は(多くの場合悪い意味で)理性的なものだと考えられてきたが、もしかしたら本能の産物なのかもしれない。そう考えると、件の演者は非常に本能ドリブンで、哺乳類らしいといえる。

 そういう人に理性で説こうとしても無駄だ。空腹の限界にいる動物に野菜の種を与えて「これを育てればすぐにもっとたくさんの食物が手に入るよ」と教えたところで、その種を丸飲みするだろう。
 彼らを救えるのは、説法でも折伏でもない。その空腹を満たしてくれる、もっと健全な何かだ。自己欺瞞だって使い方次第では生存に有利な働きをしてくれる。そうでなければこれだけ長期の自然淘汰を免れて、その本能が生き残っているはずがない。
 悪いことは言わないから、どうか不条理な賭博の世界から逃れて、その嘘を有効に使ってほしい。そう願ってやまない。



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