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願いを込めたポリティカル・コレクトネス

ポリティカル・コレクトネス(PC)は近年、行き過ぎて言葉狩りのようになっている現状が批判されるが、もちろん正しく使えば、問題はない。行政の仕事をしていると、不用意な批判を避けるための消極的PCもあるが、むしろ現状を積極的に変えていくためのPCを考慮することも多い。

このときに必要となるのが、10年後のPCを想像するという発想だ。未来においてどのような社会が実現されていて、その未来に対して正しい言葉遣いをするというのは、前向きなPCになりやすい。今批判を避けるのではなく、未来において「10年前にこういう表現ができているってすごいよね」と言われるようなPCだ。

たとえば、今日のある文化行政関連の打ち合わせのなかで、日本の宗教観や自然観を海外の人に紹介する文章についての議論があった。令和6年の今は、「日本人は」という主語はなんの違和感もないかもしれない。しかし、アイヌをテーマにしたウポポイ(民族共生象徴空間)などを体験した今では、そこにアイヌや琉球民族など、多様な民族への目配せをしておくべきだという気がするのだ。

もちろんOECDの定義では、特定民族の人口に占める割合が95%を超えると単一民族と呼ぶことができ、大和民族が96%を占める日本は単一民族国家だ。しかしこれは、現在の日本観である。これからさらに外国人人口も増え、さまざまな民族が住むようになる日本において、「日本人は」という主語は、あまりに不用意に響く。他の民族の移住は、これからさまざまなハレーションは起こすものの、減ることはない。95%という割合は、そう遠くない未来において下回るはずである。

そうした未来の状況を想定すると、「日本人は」と書くのではない別の表現が必要になってくる。「日本人は、自然崇拝を基本とし」と書くのではなく、「大和民族を始め、アイヌや琉球などの民族の信仰の中心には、自然崇拝があった」と書くほうが、政治的に正しい=ポリティカルにコレクトである。しかしこれは、批判を避けるためのPCというよりも、そうした多様な民族の、多様なあり方が、日本という国において共生してほしいという願いを込めたPCなのである。

批判のためのPCではなく、そうした未来を呼び寄せるために言霊として使うPCがあっていいのではないか。このときのPCとは、Political Correctnessではなく、Positive Changeの略であろう。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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