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自由は尊いけどコスト高!って話
【※先に書いておくと、この文章はあくまでも問題の提訴やズームはするクセに解決案を出さないという一方的なものです。】
①この記事を読む前にこちらの記事を読んでおいてほしいです。
【余剰、増やしたくない?】
②前にも書いたように僕は人間が好きなのである。
ビジネスを通じて人との繋がりとか、雇用の創出/地域コミュニティの活性化/日本経済の活性化…etc
そういうものに寄与して身近な奴ら(当然自分も)がなんとなく不幸を回避できると良いなとか考える人間である。
③【この記事】でも書いたように社会にもっと余剰ができると良いなーなんて考えたりもする。
ただ、実際社会は余剰を増やすどころか余剰分の取り合いを日々激化させているように思える。
④それがなぜなのか、「余剰とは各人が影響を与え合える範囲の集団で生み出されるもの」という解釈の中で「不自由さが機能するメリット=集団によるコストの削減」を書いていく。
僕は右派でも無いし左派でも無い、ただ社会について1つの解釈を書き、読んでくれる人が社会を考えるきっかけとなれば嬉しい。
⑤現在、社会では様々な方面で「自由」が推進され、是とされている。
もちろん僕も「自由」の恩恵を受けているしそれを是とする社会を正しいと感じている人間の一人である。
衣食住、それらの代金を稼ぐための仕事、まで各人が自由に選択できる。例を挙げると
⑥学校の制服なども男はズボン!女はスカート!のような縛りから選択制になった学校も出ている(完全に解決されたわけじゃないんだろうけど)し、
ランチに和洋中、肉野菜魚どんなものを食べていても怒られない。
住む場所も飛行機や電車、車が開発されるまではおそらく山奥の村に生まれた子はその地で暮らす人がマジョリティで、現代のように東京で一人暮らししたい!行ってきまーす!とはできなかっただろう。
職業だって士農工商はっきりとしていた時代に産まれれば農家の子は農家だっただろうし、そこまで時代を遡らずともたった数十年前の終身雇用前提の時代と比べても今は転職なんかも自由にでき、自分の就きたい職業を選ぶ自由が与えられている。
⑦時代と共に社会活動をする上での「不自由さ」は「自由」へと置き換わってきている。
そして、社会において人が自由になる、ということはすなわち「集団に依存した状態からの脱却、個人への回帰」の性質を強く含んでいる。
⑧祖父/祖母/父/母/自分たちの世代、がまとまって住んでいた時代に比べ、一人暮らしが容易となった現代では家族という集団への依存度は下がっているし、
終身雇用のような一度入ったら一生安泰!という時代に比べ、転職が容易となった現代では、会社という集団への依存度は下がっている。
大きな括りでは村全員が仲間!産まれてから死ぬまでのほとんど(衣食住~就職やら恋愛やらも)を村で!みたいな時代や場所に比べれば、そういった集落への依存度も下がっていることもあるだろう。
⑨そして、生きていく上で「集団への依存度」が下がり、「1人1人が自由に選択をして生きる」ということは、「1人1人が生きていくコストを個人で払う」ようになってきているということだ。
もちろん、1人1人がコストを払うということは集団でコストを払っていた時よりも1人あたりのコストが大きくなる。
⑩衣食住で言えば
衣服は
兄弟や友人という集団でおさがりを貰っていると、「自由/不自由」の観点で見れば「不自由」であり、「コスト」の観点で言えば「小さい」
個人で新しく選び、買うと「自由/不自由」の観点で見れば「自由」であり、「コスト」の観点で言えば「大きい」
食事は
寮や家族など集団で作り、食べたり、地域コミュニティが活発な時代/場所ではご近所さんという集団の中で作った野菜を分け合ったり、多く作り過ぎたおかずを分け合ったりするかもしれない。
それも「自由/不自由」の観点で見れば選択が狭まり「不自由」であり、「コスト」の観点で言えば「小さい」
個人ですべての食事を摂取すると「自由/不自由」の観点で見れば「自由」であり、「コスト」の観点で言えば「大きい」
住居は
家族や恋人などと同居同棲をすると「自由/不自由」の観点で見れば「不自由」であり、「コスト」の観点で言えば「小さい」
1人1人が好きな場所に個人で住むと「自由/不自由」の観点で見れば「自由」であり、「コスト」の観点で言えば「大きい」
衣食住以外、職業選択や恋愛なんかも村の中で働いたり、村の中で恋愛をするのが当たり前だった時代からすると
今の時代は場所/人/やりたいことなど色んなものを「自由に」選択できる代わりに、自己投資や、転職エージェントに、結婚相談所やマッチングアプリに「コスト」を払うことになっている。
⑪このように、1つ1つの選択/実行について個人への回帰が行われた結果、「集団によって選択/実行」されていた時代よりも多くのコストが掛かるようになってきている。
そう、社会が「不自由」から「自由」に移行していくのは決してノーコストでは無く、「集団」によって抑えられていたコストを「個人」が各人1人1人で払うことにより成り立っているというのがこの文章での解釈である。
⑫ある程度不自由な地域コミュニティなどの「集団」によって軽減されていたコストも、自由になった「個人」一人一人が払うこととなっている現代では余裕が生まれにくく、社会の「余剰」が生まれにくいのは当然とも考えられる。
⑬僕のような独身/一人暮らし/会社は独立済み/なんて人間はおそらくこの上なく自由からの恩恵を受けていると言えよう。
ただ、この「自由」が推進され、「集団が個人へと回帰」する流れは「余剰」にとってはマイナスの側面も大きいのだろう、というのが今回の解釈だ。
⑭さて、飽きてきたところでまとめよう。
今の社会でこの「選択の自由」に対して「選択の不自由さ」の恩恵を語るというのはなんとも反社会的にも思えるし時代に逆行した解釈のようにも見えるかもしれない。
先にも書いたようにもちろん僕もこの「自由」の恩恵を多分に受けている人間の一人だ。
実際、選択の自由化/個人化が推進される社会で時代に逆行して不自由を受け入れ、個人が集団に戻っていくことは無いだろうと思える。
だからこそ、家族や趣味のサークル、地域コミュニティ、職場仲間など現代でも持続可能な限りでの「集団」のメリット、可能性を説くことは意味があると考えている。
⑮コミュニケーションや他者への思いやり、親切などは、他人に踏み込む行為であり、そこにはなんらかの(プラスマイナス問わず)関係性が構築される。
それは現代社会では「不自由さ」の側面を強く持つが、その多少の「不自由さ」から関係性や「集団」は形成され、「余剰」が作り出されるのでは、というのが今回の自分の解釈である。
⑯今回、「余剰とは各人が影響を与え合える範囲の集団で生み出されるもの」という解釈の中で「不自由さが機能するメリット=集団によるコストの削減」を書いていった。
何故なら「自由と個人、競争」は密接にかかわり、「不自由と集団、協力」は密接に関わると考えたためである。
…ただ、各々自由でかつ、人と繋がっていて、仲が良くて余裕がある、って状況が一番よなぁ。難しい。
2023/12/01
【※上記の発言は個人的なものであり、所属する会社(ベストマージ株式会社)の見解では…あります、何故なら僕が代表だからです。】
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