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大瀧詠一 × 細野晴臣 ノスタルジー

▼こんなサイトを発見。

続いていく、音楽のその先で

これは、2018年に発売された星野源のオフィシャルブック「YELLOW MAGAZINE」に掲載された、星野源 × 細野晴臣 × 山下達郎 の3名による対談記事のダイジェスト掲載サイトで、オイラ的に実に興味深い記述がありました。

その前に、オイラにとって「長年の謎」のひとつについて語らせていただきます。(本記事は敬称略で表記させていただきました。あしからず。)

1973年に「はっぴいえんど」を解散した後、細野「キャラメルママ/ティン・パン・アレイ」を中心にスタジオ・ミュージシャンとして、後に「シティ・ポップ」と呼ばれることになる、ニューミュージック系楽曲のアレンジや演奏、録音技術の向上に努めていたそうな。
一方の大滝は、自身のレコードレーベル「ナイアガラ」を設立し、孤軍奮闘しながら、ひたすら「趣味趣味音楽」の製作を続けていたとのこと。

恐らくお二人とも自分自身が前面に出て「スター」となることは望んでいなかったと察しますが、それでも、自分の数十年に及び音楽ヲタクとして培ってきた知識やノウハウを、なんとか「現代の音楽」という形で具象化し、そして音楽仲間と、できれば一般層にも「理解して欲しい」という欲求・願望は心のどこかに残っていたものと妄想します。

一説によると大滝は、ユーミンの作品等で細野が構築するリズムセクションに並々ならぬ対抗意識を燃やしていたとのこと。その想いが「サイダー74」等、大滝自身が「ようやく自分で納得できるリズムを作ることができた」という域にまで到達させたのではないか、と思ったりもします。

ただ、1978年時点において、大滝は一般大衆ウケするようなアルバムを製作しようという意識は、おそらくなかったのではないか?とオイラは思っています。
少なくともその当時にリリースされたアルバム「多羅尾伴内楽団 Vol.2」「DEBUT」「レッツ・オンド・アゲイン」を聴く限り、とても一般層向けの音楽とは感じられません。

そんな大滝詠一が、なぜに突然、あからさまに一般層ウケを狙った大作「ロンバケ」を作ろうなどと思い立ったのか、がオイラ的には長年の謎のひとつでした。

その「謎」「解答のひとつ」と思われる記述が、この対談記事の中にありました。
以下、前述のサイトからの無断転載です。

敬愛する偉大な音楽家、細野晴臣と山下達郎に『YELLOW MAGAZINE』誌上での鼎談企画を持ちかけたとき、星野源はまだ知らなかった。二人の顔合わせが考えていた以上に特別なものだったということを。
山下
細野さんとちゃんとお話しするのは今日が初めてなんですよね。
星野
え、初めてなんですか?
細野
そう、長い付き合いなのに初めて(笑)。
(星野源オフィシャルイヤーブック『YELLOW MAGAZINE 2017-2018』より)
はっぴいえんど、ティン・パン・アレー、YMO、そしてソロ・ワークスと、革新的なサウンドで時代を切りひらいてきた細野。シュガー・ベイブを経てソロとなり、時代を越え、普遍的なメロディーを響かせてきた山下。
40年以上にわたるキャリアのなかで、二人の歴史はもちろん何度もすれ違い交差してきた。
1973年のはっぴいえんどラスト・ライブ、数々のミュージシャンが参加した3部構成のステージのうち、山下は大瀧詠一のソロ・パートなどでコーラスを務めていた。1976年、細野のアルバム『泰安洋行』に収録された「蝶々-San」で「船長さんの声」とコーラスを務めたのも山下だ。一方、1977年にリリースされた山下のアルバム『SPACY』では、「LOVE SPACE」など数曲で細野がベースを担当している。
そのほかにいくつもの楽曲で共演しながら、なぜかこれまで、二人はきちんとしたかたちで会話をしたことがなかったという。
2017年12月。細野、山下、そして星野の3人は都内某所に集い、個室にはスタッフを入れず3人だけで、いつまでも時を忘れて語らい続けた。音楽を始めた日のこと、それぞれの足跡、今後へのさらなる意欲。
星野
(略)お二人ともずっと音楽を作られてますよね。作品もそうだし、ライブも活発にされてるし。
山下
細野さんはこの数年間、ライブを活発になさってますね。
細野
うん、好きになってきちゃった、ライブ。
山下
ライブ嫌いで有名な細野さんが、ねえ。はっぴいえんどの頃、細野さんが新幹線のホームにちっとも来ないので、マネージャーの石浦(信三)さんが狭山の家まで行ったそうですね。そうしたら細野さんが風呂場に隠れてたって(笑)。ライブに行きたくないっていう理由で。それ、大瀧(詠一)さんからずいぶん聞きましたよ。
細野
そんなこともあったのかな(笑)。全然覚えてない。(略)
(同上)
すっかり打ち解け、くつろいだ彼らのよもやま話は、いつしか大切な人との思い出を巡って交わされていた。2013年末に急逝した大瀧詠一についてだ。はっぴいえんどで細野と活動を共にし、自らのナイアガラ・レーベルで山下がデビューするきっかけを作った大瀧が、二人にとって唯一無二の存在であったのは言うまでもない。1981年にリリースされた大瀧のアルバム『A LONG VACATION』には、実はこんな逸話があった。
細野
『A LONG VACATION』を作る前に、大瀧くんが一人でキャデラックを運転して、うちまで訪ねて来たの。今までそんなことなかったからびっくりしちゃって、なんだろうと思ったら、「自分も売れるから」って。
山下
ははははは。そうか、YMOの後だから。
細野
宣言しに来たんだ。
星野
それは……ものすごい話ですね。

(同上)
亡き友の秘めた思いを今になって知る、そんな瞬間もこの日の二人にたびたび訪れることになった。
抜粋したのは約13000字に及ぶ、親密な3人の会話のほんの一部。細野と山下に多大な影響を受けてきた星野の呼びかけによって、歴史的な鼎談が実現した。
門間雄介(編集者/ライター)


本記事によると、大滝詠一は、細野が「大衆に媚びる」方法ではなく、あくまで自分流「音楽ヲタク」の道を貫く方法=YMOという戦法で大ブレイクを果たしたことに、少なからずショックを受けた様子を伺い知ることができます。
「よーし、だったらオレも今まで誰も作ったことのない、オレの音楽知識と今までの試行錯誤で得たレコーディングノウハウの粋を尽くした作品を作ってやるぞ!」と思い立ったのではないか?と推察できます。

果たして、二人の音楽ヲタクによるライバル関係は、日本の音楽史に残るアルバム=ロンバケと、一大ムーヴメント=YMOという足跡を残すことになりました。

オイラひとりの勝手な思い込みに過ぎませんが、もし、ロンバケ製作の動機のひとつが、盟友であり音楽ヲタク仲間である細野へのライバル心、ジェラシーであったとしたら・・・なんつーか、大滝仙人、ガラにもなく青春しちゃってたんだなー、と微笑ましくなってしまいます。

なんてな。

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▼IMFORMATION

● 4月定例やまぼうしライブ

日時 2020年4月10日 (金)19時30分~21時00分
会場 コーヒー&ギャラリー やまぼうし   
住所 静岡市葵区辰起町8-17 電話054ー271ー1602
料金 500円 (ワンドリンク付き)
出演 19時30分~ ※調整中※
   20時15分~ 竹田キミヒコ(ポップ/ギター弾き語り)

▼参考リンク
BLUES和也のSoundCloud
GarageMihoのYouTubeチャンネル
旧ブログ「だからPA屋なんですってば」のアーカイヴ


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