聖徳太子は蘇我馬子だった?

蘇我馬子が聖徳太子だったんじゃないか
という思いつきのお話です。

聖徳太子の時代、
蘇我氏は非常に力をもっていました。
天皇と親戚関係を結び、
それこそ思い通りの政治をおこなうことが
できたはずです。

蘇我馬子と聖徳太子の時代の為政として、
・冠位十二階の制定
・十七条憲法の制定
・遣隋使派遣による外交
・仏教の教えを広め、日本の初期の寺院を建立する
これらがあります。
一般的な歴史の読み物にはこれらの政治は聖徳太子がおこなって、
蘇我氏はそれを助けたと書かれてます。
先進的で素晴らしい政策だと思います。

その後、聖徳太子は「何となく」亡くなってしまい、
蘇我氏は権力に任せてやりたい放題を行い、
ついに悪の権化として中大兄皇子、中臣鎌足らに殺害されてしまいます。

古文書や文献をひもとく以前に
このストーリーに違和感を感じます。
権勢を握っていた蘇我氏はなんで聖徳太子のフォローにまわっていたのでしょう?
力があるんだから、自分たちが中心で政治を動かそうとすると思いませんか?
聖徳太子が優れた人物だったから一目置いていたのでは?
みたいな印象を何となく持ってしまっていましたが、
少なくとも聖徳太子が、蘇我氏の意に添わぬ政治をおこなおうとすれば
蘇我氏が手をこまねいているわけはないと思われます。
要するに、聖徳太子の功績のように言われている為政は、
蘇我氏がやろうとしていた政策そのものであったと考えられます。
つまり、蘇我馬子の政治の能力は(聖徳太子のように)優れていたといえます。

その蘇我氏が、聖徳太子が亡くなったとたんに豹変し、
なんだが、時代劇の悪大名だか悪代官みたいな頭のよくない悪の権力者になってしまい、
出自のあやしい中大兄皇子とどこの馬の骨ともわからない中臣鎌足によって
誅罰のようなクーデターで滅ぼされてしまいます。

わしはやはり、蘇我氏を悪とした歴史は、クーデターで政権を握った中臣氏(藤原氏)が後から改変したもので、
聖徳太子の政治とその成果は、蘇我氏のものであったのだと思います。

歴史観に怨霊論を持ち込んだ、梅原猛「隠された十字架」では、
法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込めた鎮魂の寺だ、と書かれていたわけですが、聖人とあがめられ、亡くなるときもふわっと亡くなった聖徳太子を
どうしてあのように怨霊として封じ込めなければならなかったのか、ずっと疑問に思っていました。
法隆寺に封じ込められている怨霊は、蘇我氏、蘇我馬子ではないかと考えれば、確かに恐ろしい怨霊であると、腑に落ちます。
法隆寺で50年に一度とりおこなわれる「聖霊会」(ちょうど2021年も開催年ですが)において登場する、「蘇莫者」の舞いも、「蘇我氏を莫(なきものにする)者」と解すればより納得できます。

聖徳太子は諡(おくりな)であり、厩戸皇子(うまやどのみこ)という人物であったとされますが、
「馬」にちなんでいるところが馬子を連想させるといったら穿ちすぎでしょうか?



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