『機会の平等』を重んじる現代の欺瞞について

 人権を大事にしてやまない先進国でさかんに叫ばれる言葉、それが『平等』というもので、あらゆる場面において「それは不平等ではないか」と第三者が申し立てた異議をもとに構造全体が見直される、という動きはよくあるものだと思う。僕たちは実際、平等という原理を大切な考え方として遵守しているように思うし、平等が重要か否かという議論を行えば、我が国に住むほとんどの人間は「yes」と首を縦に振ることだろう。

 しかし平等をテーマにした諸問題において、「それこそが平等だ」と全員が納得し、滑らかに結論が導かれたようなケースを見たことは、残念ながらほとんどないと言っていい。おかしなことだ、と思う。平等という理念を我々はこよなく愛しているはずなのに、それなのに、平等の議論において我々の意見はことごとく対立するのである。

 結論から言えば、それは「機会の平等」と「結果の平等」という概念が相反するというところにあると思う。

 自分がこの件について深く考えるようになったのは、コロナ禍においてだった。まさにあの時代に謳われていた「平等な援助」というものはなにひとつ平等ではない、それを肌身を持って体感させられた期間だったと思う。自分は当時飲食店でアルバイトをしていたのだけれど、あの頃に行われていた、店の営業時間を制限する動きや酒類の提供禁止は、はっきり言って異常だった。たしか一律六万円の給付金が渡されていたはずだけれど、そもそも店の規模が違うのだから、その一律の給付金が経営に与える影響に差が出るのは当然である。また、酒類禁止にしてもそうだろう。ちょうど自分が働いていたのがワインをメインにしたチーズバルだったが、当然それらの酒類に合うように料理を準備しているので、酒類を禁止されるとそれに伴ってオードブルの質も相対的に下がることになる。また、当時の飲食店はテイクアウトを主にした事業で何とか立て直す動きがあったけれど、当然テイクアウトしやすい商品としにくい商品があり、後者を主に提供していたうちの店は相当頭を悩ませていた。その姿を間近で見た者としては「一律の給付金」「みんなで我慢」といった耳障りのよい平等論がいかに欺瞞であるかということを、これ以上なく知らされたように思う。

 少し余談だが、自分は星野源があまり好きではない。「うちで踊ろう」と言ってコロナ禍に合わせた楽曲を彼が提供したのは記憶に新しいが、はっきり言って、これも機会の平等が生み出す欺瞞である。誰ひとりの例外もなくステイホームが強要されたあの時代、せめてうちで踊ろうや、というのはもちろんわかる。けれど、では家族が複数いる世帯と独身世帯においてそのどちらが「うちで踊ろう」と言われて気休めにできるかと尋ねられれば、それも明らかだろう。星野源は新垣結衣と結婚することになるが、それほどの人脈に恵まれた人間の思う「平等」というものに世間全体が追従しなければならなかったあの時代は、はっきり言って平等なんていう概念とは程遠い世界だったと今でも思う。

 世間が平等という概念に対して一律の意見を持ちえないのにはこういった背景があるのだろう。つまるところ「全員が同じアクションを起こす」という機会平等論は「そのアクションを起こすだけの体力に差がある」という事実を徹底的に視界から排除したうえでのみ成立する。それでは当然、排除された側が異議を申し立てるのは当たり前となる。

 現在、以前のようなコロナ騒動は見かけなくなり、街にもノーマスクが増えてきたようにも思うのだけれど、こうした平等の欺瞞への異議申し立ては、また別のテーマのなかで再燃しているように思う。

 それこそが、ジェンダー平等である。

 最近そういった趣旨のニュースはよく見かける。理学部の女子生徒数の引き上げを目指す入試の特別枠、女性管理職の増加。また、これは大人だけではない。小学生においても、たとえば徒競走の一位が男ばかりだという異議申し立てのもと、男女混合の競争は時代遅れだという非難の声が上がったりする。パッと見て「女が男より劣っている」というメッセージ性を含みそうな光景に次々とバツ印が付けられていく時代の風潮も、あと何年かは続くことだろう。これについても、世間の見解が一致しているような印象は受けない。女性の思う平等論に対し、男性が異議を申してている現代の構図は、はっきり言って“コロナ禍のそれ“だと思うのである。

 例えばある企業の管理職が男女半々になったとして、それにより満足するのは主に女性だろう。しかし男性がそれに納得しづらい理由は単に、そこを半々にしたところで結果の平等が何ひとつ満たされないという一点にある。これは様々な要因があると思うので、ひとつひとつ整理していく。

①稼得役割の非対称性

 外で働いて金を稼ぎ、家に金を入れるという役割を担うのは、主に男性になる。こういうことを話すと「今は共働きが主流だ!」「なので家事育児の役割も半々に!」といった意見がすぐに押し寄せるのだけれど、その共働きというのもその内実は扶養範囲内でのパートなどが主になるのであって、婚活市場で自分より高い年収の男性を求める女性が主流であることを踏まえても、傾向として男性が高い稼得能力を求められていることに異論を挟む余地はない。それにもかかわらず賃金平等を訴えてしまえば何が起こるかといえば、答えはひとつである。その賃金に達した際に異性から受け取る感謝及び敬意の総量に差が出てしまい、それが結果の平等を満たさないことを男性は本能的に理解してしまうのである。ちょっとややこしい表現をしたので噛み砕くと、例えば男女の平均年収がともに400万になった(機会的な平等を満たした)として、その平均を下回る男性と女性を比べると、前者のほうが結婚や恋愛に結びつきにくくなる(結果的に不平等になる)という終焉を迎えるのは明らかということだ。男女の賃金平等が同時に結果の平等も満たすためには「主夫男性を養う女性の数が、主婦を養う男性と同じくらいの数である」という条件が必須になる。それを無視して思考停止に「平等」という見せかけの状態を有難っているからこそ、男はそれに不満を覚えるのである。

②稼得後の消費目的の非対称性

 また、金を稼いだ後の消費目的にも差異があることは明記しておかないといけないだろう。男が金を稼ぎ、そして消費する目的はひとえに女に好かれるためである。しかし女性はその面においても対照的ではない。女性がお金を稼ぎ消費するとき、それが自分の体を保護する目的で使われる面が大きい。例えばだが、有名で相当稼いでいるであろうアイドルが「身バレしそうで危険を感じるので引越しします」と言っているような光景を見たことはないだろうか。稼ぎに稼いだ女性が行う消費は自己保身の面が大きい。反対に、身バレしそうで引っ越しを繰り返すようなジャニーズを見たことはあるだろうか。体格的にも強く、自分だけを守る必要性には迫られにくい男のほうが、他者を守るインセンティブが生まれやすいのは明らかだ。これは決して女は自分勝手とか言いたいわけではなく、体格的に弱い者に金を与えれば自らの身を守ることに使うのは当たり前だよねという、ごくごく当然の話をしているに過ぎない。で、前置きが長くなったのだけれど、こうした背景を踏まえてもなお、賃金平等が結果的にも平等だと言えるだろうか。答えは否だろう。男性に金があった場合に女性は包摂されやすいが、女性に金があっても男性は包摂されにくい。その点、男女に同額を与えることは結果の平等をどうしても満たすことができない。

 今後何年かは分からないが、この”平等”というフレーズが中核となった世界において、この対立は避けては通れないものになるだろう。このコロナ渦しかり、男女差しかり、それらには次のような補助線を引くことで共通項が見出せるようになる。

 つまるところそれは、機会の平等を推し進めることにより既得権益を守りたい権力者と、それでは何一つ結果の平等が担保されない庶民、その両者の対立ということである。

 そしてこの戦いが終わらない最大の理由は、前者の権力者は「後者の庶民こそが力を持っていて、弱者は我々のほうだ」と喧伝するところにある。それはコロナ禍において「飲食店で酒を飲むようなやつ、あるいはそれに加担するような人間が感染源である」という言説に誰もが追従したのを思い返せば明らかだろう。社会を全体的に幸福にするためには、こうした弱者コスプレをする権力者を見極める審美眼が必要になるのではないか。個人単位の実践というレベルで話せば、身近にいる者の苦労を推し量り、自分の我慢のみを過大評価しないこと。それによって初めて人間関係は潤滑になるものと思う。


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