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世界は戸締りされるべきなのか【『すずめの戸締り』を見て】

せっかく見たので、感想を書く。

ネタバレします。注意してください。

映画化された過去の二作(『君の名は』と『天気の子』)に比べると、とにかく、「ああ、そこまで踏み込んじゃったのね」的な感想を抱かせる作品だった。過去の二作は、現実では決して起きない世界系の出来事をモチーフに、人々に忘れてはいけない普遍的な何かを問いかけたものだったと思うのだけれど、今作ではそのテイストが大きく変わった気がする。もちろん、地底のミミズとか、そのへんは壮大なフィクションなのだけれど、やはりそれを凌駕するほど現実味を与えてきたのは、明らかな3.11へのメッセージを含んだことだろう。

ちょっと設定を振り返っておく。人々に忘れ去られた土地には『うしろ戸』があり、それが開くと、その奥に広がる常世(死後の世界)から『みみず』と呼ばれる災厄の根源みたいなものが出てきて、地に落ちると現実世界で地震が起こる。草太は現実世界を守るためこの扉の閉じ師として動いていて、鈴芽がそれに協力する運びになる。

簡約すれば、死後の世界からなだれ込んでくる何かが現実世界に災厄をもたらす。それをどうとらえましょうか。そういう話だと思った。

その「何か」とは、記憶そのものだったりするんじゃないかな、と思う。すずめはそこに亡くなった母の面影を求めてさまよっていたわけだし。しかし、それを災厄の根源が発生する場所、と設定したのは、厳しいながらも的を得た表現だったのではないか、と感じさせられた。というのも、東日本大震災によって起こったことは、津波などによる自然災害だけではなく、原発などを中心に始まった人災だったりするんじゃないだろうか。自然が襲いこんできて壊滅したことより、災害により繋がっていたはずの人が分断されたこと、そこにこそ連鎖する災いみたいなのが詰まっていると思う。それが今作の何に象形されているか。間違いなく、『みみず』だろう。

過去にあんなことがあった、それで今こんなに人が苦しんでいる、そういうことを出発点に議論をすると、それは、無関係の人まで巻き込んだ分断に発展していくことがある(=ふと開いた扉からでてきた『みみず』が、現世に地震を起こす)。でもそれで、何も関係ない人までどんどん不快な思いをしていくのって違うんじゃないか、そう思う人は、震災を初め、過去の記憶を美化し塗り替えるように改造していくような心理作用が働くことになる。これだけ復興したとか、町おこしの力は素晴らしいとか、人の善性を信じられる言論が普及する(=扉をそのままにせず、戸締りする)。でもそういうのって、心で必死に美化しただけで実態がそぐわないんじゃないか、そう否定する人もいる。そうした人々は、隠れた辛さを隠されたままに放っておくことを嫌い、今の人々が多少の負担を負おうとも、その議論の本質に迫ることこそが重要だと考える(=ダイジンが草太の戸締りを妨害する)

注:映画の前半まで、ダイジンは草太の戸締りを妨害していると思っていた。最後は違ったとわかるが、前半はこのように考えていた。

さてここで、じゃあそのどっちがいいの、みたいな話になるんだけど、とりあえず本作は「戸締り派」なんでしょうね。震災のことなんか忘れちゃえ、みたいなことをメッセージとして決して含まないとは思うけれど、最後のシーン、鈴芽が鈴芽に話しかける台詞のシーンがそれを表していたと思う。「過去にはこんなことがあったが、それでも私は大人になっていく」という、固定された時間という点での人間のつながりを想起させるよりも、固定されたひとりの人間の中での時間軸、あるいは、ひとりで完結する考え方のようなところに落としどころがあったことは、実に「個の時代」と呼ばれる今らしいものだな、なんて感じたりした。あと、神戸の観覧車での常世の表現方法も気になった。鈴芽はそこで常世に母の影を見て、戸締りの役割を忘れそうになったわけだが、それを止める草太の台詞。確か「常世は美しい世界が広がっているように見えるが実際は中には何もない。ただの観覧車だ。そのまま進んだら落ちてしまう」みたいなものだったはずだ。つまり、常世(死後の記憶が詰まった世界)は、今を生きる人々には美しく見えるものの、実態は何もない虚空間である、という表現だったに違いない。それが、戸締りをするうえで、過去の記憶を封印する罪悪感から逃れるための言い聞かせのようにも感じてしまって、僕は胸が「うぅ」ってなった。

という感想からもわかるように、僕はどちらかというと「反:戸締り派」な気がする。つまり、映画前半、僕はずっとダイジンに感情移入をしていたのだ。タイトルが「すずめの戸締り」なのだから、戸締りを成功させるためのストーリーとして描かれているのは自明で、現世の人たちを守ろうとする草太こそがヒーローとして描かれ、それを妨害しているように見えたダイジンは悪役として観客の目に映る。しかし僕はそこまではっきりとした対立関係では見れなくて、「いや、ダイジンのやってることにも一理はあるよな」なんて思っていた。廃墟とかにあった思い、本当に戸締りしていいの? みたいな。むしろ、人々から忘れ去られたからその『うしろ戸』の存在に誰も気がつかないわけで、普段から誰も気に留めないことには罪悪感を抱かないにもかかわらず、そうした無関心により起こる災厄は真顔で否定しようとできてしまう人間への、都合のよさみたいなものも感じたのだ。最もグッときたシーンは、草太が要石になったあとのものだ。草太が要石になってしまったことで、鈴芽がダイジンに「もうあんたの顔も見たくない!」と激昂するが、それによりダイジンがやせ細り萎れる。「鈴芽、自分のこと好きじゃなかった……」と項垂れてその場を離れるシーンには思わず涙腺が緩んだ。ダイジンの代弁をするなら、「僕はみんなに、いろんな人の過去の記憶を覚えていてほしかっただけなのに、そういうことすると、やっぱ嫌われるんだ……」みたいな。正しさを追求する側の、「終わったことを蒸し返すな」とか「それで誰が得をするんだ」とか、そういうことを言われがちな人の感情が籠っているように自分には思えたのだ。その象徴となってくれたダイジンは、実にいい立ち回りをしているな、なんて思っていた。

と、長々と書いたのだけれど、自分がそう考えていたことが、実に頓珍漢なことだったと気がついたのである(笑)。

理由はもちろん、ダイジンの意図が明かされたことによる。ダイジンは決して災厄が起こるのを望んでいたわけじゃなくて、二つあるうちのもうひとつの要石が抜けそうで、そちらの方に誘導してたらしい。だったら初めからそう言えよ、と思う。でも「神さまは気まぐれ」という草太の言葉通りで、人間界の都合のいいように神様が動くわけではないのだろう。自分たちが神様と崇め奉るような存在も、人に気に入られれば喜び、無関心のままだと萎れる、ごく人間らしい概念なのだというのは、この映画の世界観を崩さない設定だったと思う。そういうのにも気が配られていて、すごい。

と、話がそれたけれど、要は、登場人物がみんな「戸締り賛成派」なわけですね。僕は、しっくりこなさは唯一そこにあるかな、と思った。つまり、「現世で地震が起こるのかは知らんが、扉を閉め切るのは違うと思う」という立場の人間がゼロなのだ。あまりに「扉は閉めるべきもの」という前提が疑われていない感じがしたのだ。人々から忘れ去られる地や出来事があるから、そこから「覚えておいてくれ」というぬるりとした思いが湧き出ているのであって、それを戸締りするのがヒーローって、なんか違くない?と。最後のシーン、たくさんの「行ってきます」が連射された箇所、あそこも涙腺ポイントだったけど、たぶん、そうした「『おかえり』を迎えられなかった『行ってきます』」を震災の裏に隠された思いとして抽出することって、震災をまだそこまで悪夢の当事者として受け止めていない人の片付け方、な気がどうしてもしたのだ。

これは例えば、靖国参拝とかにも通じたりするんじゃないだろうか。戦争はダメだ、戦犯にも参拝はしない、みたいなのを「戸締り」とするのか、それとも、彼らにも戦争に参加せねばならないひっ迫した状況があったと、その理解による「戸の開放」をしておくか。忘れ去られた出来事の風化に、どのような形で臨むのか。ここまで言っちゃえば、そのどっちがいいみたいな話じゃないだろうけど、でもよく考えたら、ひとつのことに気がついた。

戸締りをしなくちゃいけない。それは人類の命題だったりするんじゃないだろうか、と。

いいように美化して憶えておくことを「戸締り」、今時点での分断をも恐れずに本質を追求することを「反戸締り」みたいに書いてきたのだけれど、よく考えたからそれって違うんじゃないだろうか。この両者は、戸締りをする者としない者、という分別をされるのではなく、どちらも戸締りの必要性をひしひしと感じたうえで、その独自の方法論に行きついた者として見るのが正解だったりしないだろうか。震災でいうのなら、そのせいで地獄を見せられた人にはその人なりの戸締りがあるし、それをニュースでしか見なかった人にも、その人なりの戸締りがある。戸締りとはつまり、「納得感そのもの」なんじゃないだろうか。例外なく人は、過去にあった悲劇を消化しなければならない。その消化なしには病んでいく一方で、現世をうまく生きていけなくなるからだ。過去のことをいかに合理的に解釈するかに重きを置く人もいれば、麻酔を打つように力を抜いて俯瞰する人もいる。そのルートの違いで睨み合うことに、あまり価値があるとも思えないのは事実だ。どうしてか。戸締りをしている時点で、そこに戸があったことの認識はしているから、それに尽きるからである。災厄の対処だって、その規模に大小の違いはあれど、突き詰めれば経験則、みたいなところがある。誰もが、困難にぶち当たってはその壁を乗り越えることで挫けないように生きている。その挫けなさは、あらゆる戸締りによってもたらされてきたはずだ。だから真の「反:戸締り派」とは、地震がもう一度起こることを願っている人とか、戦争をもう一度繰り返すべきとか、そういうことを言いだす人の方だろう。確かに間違いなく、「震災の記憶にも戸締りしちゃっていいの、というかできるものなの」みたいな靄は残るかもしれないけれど、でも、製作者陣が、人に忘れ去られた地をテーマにしたからこそ、そうした問いかけを持つことができた事実の方に目を向けておくべきだ、とも思う。

真のよい作品とは、答えではなく問いを与えるものだ。本作は間違いなく、それだった。

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