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『推しの子』の炎上について

 推しの子がどうやら炎上(?)してるみたいで、その件を見て勝手に手が動いていたのでこうして書いています。

 炎上の原因となったのは、六話のアニメでした。

 実際に第三章の「恋愛リアリティーショー編」では、2020年に『テラスハウス』で発生した自殺事件を下敷きにストーリーが展開されていく。
恋愛リアリティーショー出演のオファーを受けたアクアは「想像してたよりやらせが少ない」と収録の感想を口にする。そして双子の妹・ルビーから「やらせが少ないのは良い事じゃない?」と問われたアクアはこう答える。
「観てる側からしたらそうだろうけど 嘘は身を守る最大の手段でもあるからさ」(3巻)
 ここで嘘=フィクションは、視聴者に夢や幻想を抱かせる装置であると同時に、生身の人間を守るシェルターであると指摘されている。
 作中でもリアリティーショー出演者のひとりがSNSでの過度なバッシングを受けて自殺未遂を引き起こす場面がある。ここで浮上するのは、フィクションを引き剥がされ、生身の人間(という体裁)としてタレントをカメラの前に立たせることの残酷さだ。
 本作では、多くのファンに求められる“美しいフィクション”を作り上げるためのアイドル・俳優たちのたゆまぬ努力と緻密な計算が描かれている。歌やダンス、演技……と、彼女たちは自身の適性やスキルを冷静に見極めながら、清濁併せ吞む芸能界で生き抜く術を身につけていく。

https://www.tv-asahi.co.jp/reading/logirl/1208/
より引用

 アニメで使用された場面が、木村花さんの自殺までの状況と酷似しており、それについて遺族側が抗議しているという構図になっているようです。実際に作者がこれを認めるといった内容に関しては確認できておらず、そこが作者と見解が一致しているのかどうかについてはまだわかりません。そこは了承の上です。

 それに対して木村響子さんのツイート。

 自分が傷つき、それを打ち明けるという内容に関しては意を挟むところはないのですが、この発言には明らかにそれ以上の内容が含まれてますね。「命日が近いこのタイミングでのアニメ配信」というあくまで予想の範疇を出ない感想、及び、「心から軽蔑します」という、製作者側への非難。明らかに主は「製作サイドは想像力がない」という、他者の倫理性の欠如を指摘しています。

 もちろん、わからないとは言いません。自分が近くにあった人間関係から疎外され、しかもそれが、とりわけ強い喪失感を覚えている最中の出来事ともなれば、楽しそうにしているだけの他人の姿が自分を加害しているかのように思えることがあります。しかもそこで楽しそうに消費しているものが、自分の悲劇の根となる事件をオマージュしたものであればなおさらでしょう。その事件から連想される出来事、思い出からはとても想像できない表情を他人が浮かべていれば「おかしいのはお前らだ」と言いたくなる気持ち。それは初期衝動としては当然の感情でしょう。

 しかし、ではそれを壊してしまえばいいという動きには全くもって賛同できません。主はテレビ朝日を「想像力がない」と非難していますが、申し訳ありません――想像力がないのは、あなたも一緒です。あなたが不快でしかない表現に感動し、明日を生きる活力を得ている人間のことも考えてあげましょう。その人たちは決して「あの事件だ、ウヒヒ」と鼻で笑っている人ばかりではないはずです。故人を貶める意図が明確があるのであれば戦うことに賛同しますが、どう見ても(Amazon Primeで自分も見ましたが)今回はそうではありません。

 そしてこれは――創作という行為を語るうえで実に通念的な問いを含んでいると思います。

 自分が不幸であるときに何をするのか。ある人は、他者の幸福度も、自分と同じレベルの不幸度まで引き下げようとします。しかし、他のある人はこうするでしょう。何かを壊すことで他者と並ぼうとするのではなく、新しく何かを”創る”ことで過去を昇華させることを選びます。

 もし例えば今、自分が木村響子さんと対面し、「あなたは人の不幸度を自分と同じレベルに引き下げようとしているだけだ」と伝えれば、きっと彼女は激しく否定するでしょう。そのとき何を言うか――それはきっと「亡くなった人のことを考えられない人間を非難する自分は”何もおかしくない”」と、その正当性を主張するような旨だと思います。

 しかし――その正当性こそが、過去を受容するうえでの悪循環を生む罠であると自分は考えます。元をたどれば「自分の苦しみの種を消費する他人が許せない」というひとつの感情から生まれた行為を「倫理的に優れた正しい行動だ」と己に言い聞かせれば、自分は誰かの幸福を奪うしょうもない人間ではなく、いやむしろ果敢な英雄なのだと胸を張ることができてしまいます。ただ、そこであなたを『英雄』と認知できるのは、あなたと同じく他人の幸せが許せなくなっている状況の人だけですから、もっとマクロな目で見たとき余計にあなたは孤立し、そしてその孤立を正当化するために「私は正しいのに!」と、さらに自分の道徳的優位性に傾倒していくようになります。

 それを終わらせるために、誰にも許された行為こそが”創作”だったのではないしょうか。

 我々は、さらに他人の不幸を”削り取る”のではなく、新たに他人の幸福を”創り出す”ことができます。

 なぜ人々は新しいものを創り出すことができるのか。それは、人々が「自分が日々何を失っているのか」をはっきりと理解しているからでしょう。普通に生活していれば当然のように何かを失うからこそ、その穴を別の手段、即ちフィクションで埋めることができるようになります。創るという行為が、誰かが失った何かに起因する以上、それは誰かの喪失をモチーフとすることになります。それは誰も知らないような作者自身の小さな人間関係かもしれないし、はたまた、誰もが知っているような事件かもしれません。誰かのフラッシュバックを呼び起こすような喪失をテーマにすることを非難するのは、創作という行為への最短距離での否定です。もし木村響子さんのような意見を誰もが共通認識とするのなら、いじめをテーマにしたドラマなんかは全部やめるべきでしょうし、はたまた大河ドラマなんかも、実際の出来事をあたかも悪事かのように描けばそれは家康の子孫が不快に思う可能性があるので、やはりこれもやめておくのが賢明ということになります。木村響子さんがそこまで一貫性がある主張をするのなら確かに正当性がありますが、そうした状況を彼女が望んでいるとは正直思いません。

 なぜ響子さんが、これほどに他者の幸福を引き下げる方向へと傾いてしまうのか。新しく幸福を創る選択肢を選べないのか。

 それは彼女自身が、誰かの悲劇をもとに創作することはれっきとした”悪”であるという呪いを、自らの体にかけているからでしょう。あれだけ非難してきた他人の行為を、まさか自分がやるなんて考えられないのです。正しいと信じてやまなかった自分の行為は、他人ではなくやがて自分を突き刺す槍となり、過去の自分を正当化する手段に溺れるしかなくなります。そのせいで何も乗り越えられない自分は、誰かの目線を自分と同じ水位に下げることでしか報われなくなっていく。

 ここまで批判しておいて都合がいいですが、彼女自身には、救われる道を早く選んでほしいと切に思います。大学時代、自死遺族の会を何度も訪ねたので、お気持ちはもちろん無下にしません。ただ一歩どこかで勇気を出し、不快なものは見ないという選択肢をとったうえで、新たに他の何かを創り出すという方向にシフトできれば、創り出す者の視点が作られていきます。創る者の気持ちがわかるようになります。ああ、『推しの子』の製作者が作り出したかった幸せは、私が求めていたそれでもあるのだと。きっと頭の隅ではわかっているであろうものに、少しずつ手を伸ばしてほしいですね。

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