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結婚しない人生は不幸、ということでいいんじゃないか

……なんてことを書くと多方面から怒られそうだし、そんなタイトルで惹きつけるのも姑息だとは思うのだけれど、正直、半分くらい本当に、そう思っています。とりあえず、今は。

40歳になった私が今、思うのは、コロナと関係なく20代はずっとそんなことをぐるぐる考えていたというか……。そもそも年齢に関係なく、人生に悩みがないときなんてない。ただ日本では時代遅れの慣習が残っていて「女性はかくあるべし」という雰囲気がいまだにある。私は振り回されない自分でいたい。そうした考えを実際に口にする方も悪気はなく優しさで言っている場合も多いですが、私は“結婚をしていないことを不幸”と捉えること自体が不幸だと思いますね。 一方でここ数年、多様性が尊重されるようになるなど価値観の変動がある。個性というものが大事にされるようになったので、特に女性には世の中の古い風潮に振り回されないでほしいと思いますね。

こういう文章を見ると、なんかめちゃくちゃモヤモヤするんですよね。結婚しない権利。多様性の尊重。古い価値観に振り回されるな。あなたらしくいれば、それでいい。

こうした考えのいちばんにマズいところって、自分の考えで傷つける、あるいは損失を与える者の存在を視界から排除した発言なところだよなあ、と思う。2022は出生数が約80万と、過去で最低レベルの数字を記録した(確定したデータが見つからなかったので見通しの記事)。ベビーブームの世代が高齢者になるころには人口比がたぶん破綻してくる。そうした時代にこういうことを言う重み、わかってるんだろうか。自分がお年寄りになって、そのときに支えてもらう若者の数が少なくても、絶対に文句、言わないんですよね……。

こういうことを書くと誤解されそうだから、その断りをしっかりと入れるべきだと思って書くのだけれど、自分は、女性なら子どもを産むべしとか、そういうことを言いたいわけではないです。というかむしろ、自分の好きなように選んだらいい。少子化なんて関係ありません、独身で私は幸せですからと思うのならそうしたらいいと思います。なのになぜこんなことを書くのかというと、今でいうところの「女性の権利」というものが、「おいしいとこ取りをしていい権利」と勘違いされている風潮が間違いなくあると思うからです。

僕の勝手な持論なのだけれど、「権利」と「おいしいどこ取り」は違います。たとえば僕にはこうやって、聞きかじったニュースをもとに記事を書き、知りもしない他人の発言に首を突っ込んで意見を述べる「権利」がありる。だからこうやって、思ったことを書いています。でも、そうしたせいで、デメリットが生じる可能性があるでしょう。たとえば実際に中村さんがこの記事を読んだときに彼女のことをとても傷つけてしまうかもしれないし(そんなことはまあないのだけれど)、これを読んだ以上は僕への印象も最悪になって、仲は絶望的になるでしょう(そんなことまあ……)。僕が名もない凡だからこそ余裕綽々しゃくしゃくに書けると言われればそれまでですが、僕が少しでも知名度があったとき、それは当然、自分が負うべき責任になります。つまり、「俺は意見を言いたいだけ言わせてもらうが、それによる非難の発言は一切受け付けないし、それで嫌われるなんてごめんだ」みたいな態度は、さすがに許されないということです。まわりの誰かを傷つけてでも、それでも、思い描くどこかの平和、誰かの安心を願って言葉を発する。それが覚悟なり責任というものだ、とも思います。

で、これは本当に僕の想像なので、違ったら申し訳ないんですけど、上の中村さんの発言が、それを背負った言葉だとはどうしても思えないんですよね。自分のやりたいことに対し、それに反対する人間はそうした意見こそが「不幸」なのだと断罪する。これを平気でやれるって、つまり、「結婚がスタンダード」的な価値観によって担保されてきた労働力や、そうしたものによって自分が受けている恩恵を考えていないとしか思えないんですよ。もしその恩恵に少しでも自覚があるのなら、こういう言い方になりませんか。

「私は幼少期より仕事一筋でやってきたので、その時間を一番に大事にしたい感覚が根強く残っていて、結婚もしませんでした。自分は親に育ててもらいましたし、今の世の流れを踏まえても、さらに事態を悪化させるようなことなのだろう、とは思います。ただ、私の演技などで多くの人に勇気を与えること、家族のいる家庭にドラマを届けることを、私の役割としたいです。人口という面では何も力添えできないぶん、女優業の道で、今を生きる人々の力になる方法を模索したい、という次第です」

何度も言うけれど、女は結婚して子供産むのが仕事、みたいなことを言いたいわけではないです。結婚しなくても、なにをしてもいい。ただ、それにより周囲に与える影響に自覚的になれない限りは、駄々をこねていることに変わらないと思うんです。「私は結婚したくない」という個人的な欲望に、多様性とかいった、風流の言葉を安易に持ち出してほしくないんですよね。僕たちは決して、誰もが身勝手に生活できる世の中を想定して「多様性」を尊重したいわけではない。誰かを傷つけながらも、それ以上の誰かを幸せにすることで世の中に貢献する、その貢献の仕方を様々な角度から模索する権利こそを「多様性」と呼んでいるし、これからも呼ぶべきだ、と思います。

だから、このインタビューが、上に書いたような文章だったら、全然話は違ったと思います。それを読んだ人は「そうか、人口的には逆行する行動だけど、それでもそれをやりたいんだな。それが中村さんの覚悟なんだな」となります。でも、実際の記事を読む人は、こう思うんじゃないでしょうか。「結婚しない人は不幸という仮説を、実証するようなインタビューじゃないか」と。結婚するのが女の道だ、みたいな価値観が強く残っている時代に、それでも結婚をしない女性って、もうそれだけで覚悟の表れだったと思うんですよ。結婚しないだけでもう何言われるかわからないし。でも今みたいに、「あなたの好きに生きなよ!」的な言説が蔓延っていて、それに自分の欲望を混ぜ込むことで楽に主張ができるようになったんだろうなって人を見ると、そうした「時代に逆らってでもしたいこと」という覚悟が、どんどんと透明なものにされていくんだろうな、と思います。

ツーブロック禁止の校則はなぜあるのか、という問いへの秀逸な答えとして、「校則があるくらいでツーブロックをやめるようなバイタリティの低い個体をふるいにかけるため」というものがあったのを思い出します。結婚するのが女の道、みたいな価値観があるだけで周囲の意見に溶け込み同調できる道を選んでくれる女性のおかげで、今の世ってあるんですよ。もちろん、そういう校則があったら、ツーブロックが本当に好きな子は、そりゃめちゃくちゃに傷つきます。誰にも認められないじゃんって。孤独に打ちひしがれると思うし、でもその傷と共に生きてでも、ツーブロックにしたいならしょうがないし、それを物理的に阻害してはいけないから法律というものがある。だけれどそれは、「ツーブロックいいよね、よしよし」となるわけではない。ちなみにツーブロック禁止とかになると、僕はあほくさい校則だな、と思います。大事なのは、ツーブロックを禁止することで明確な利益を全体が受け取っているか、だと思うんですよね。それがなくなってきているからツーブロック禁止校則は馬鹿馬鹿しいと思われているわけで、でも、結婚するのが良い生き方、的なイデオロギーは話が別でしょう。生活するとき、周りを見渡せばそこにあるものはすべて、人の手により作られている。その人たちは、誰かの腹から生まれて、誰かが懸命に育ててきた魂そのものだ。

それを忘れた人の言葉は、いつまでも薄いし、誰の胸にも響かないんじゃないでしょうか。そういう世であってほしいです。

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