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朝などやってこない家族【『朝が来る』を読んで】

辻村深月さんの本を読むのは二回目。前作は、『傲慢と善良』だった。

二作目に読んだのがこの作品だったのは偶然で、知り合いに紹介してもらったから。

※ネタバレします

「朝が来る」というタイトルから感じられる希望は、本作の前半でしか見いだせず、後半、養子となる子どもの産み親となった中学生ひかりの章においては、どこにも”ひかり”がないような絶望感に、読者もともに吸い込まれていく。

最後は、育ての親である佐都子がひかりを助けるシーンで締められる。そこには、ひかりのどうしようもない現状の最後に訪れた希望のようにあたかも映るけれど、どう考えたところで、それは希望にはなりえない。結局のところ、ひかりは横領の罪を犯しているわけだし、そもそも現実なら、後悔した佐都子が追いかけたところで、ひかりのことを都合よく見つけられるわけがないよな、とも思う。しかしだからこそ、ひかりが「広島のおかあちゃん」として覚えられていることだけが、際立って一縷の糸となっているのも事実。それを「ひかりにも朝が来た」と言ってしまうのは簡単だけれど、そうとはやはり思えない。朝が来たのは、佐都子たちだけで、ひかりは深夜のままだ。これは、朝という概念の、譲渡に過ぎないと思う。

と、そうした話はさておき、自分が特に面白く惹かれたのは、ひかりの家族構成だった。というのも、前回に読んだ『傲慢と善良』と共通して、問題を抱えた家族の描き方に圧倒させられたというのが、大きな印象として残っているからだ。

『傲慢と善良』の女性主人公である真実は、婚活を行う中で、その母親に諸悪の根源があることが描かれている。ここで描かれていたのは「過干渉な母親と、それに無関心な父親」だったと思うけど、今作においてもそれが共通している。ひかりの母親は、ひかりが異性と交際することを極度に嫌がり、また、父は娘が中学生になったにもかかわらず「ひかりちゃん」呼びと、甘々、かつ、ひかりに対する母の過保護な様子をなだめる様子はない(読み飛ばしていなければ)。

結果として、『傲慢と善良』では、真実は自分で自分のことを決められない成人として育ち、『朝が来る』では、ひかりは中学の同級生を相手に妊娠することになる。物語としての筋道を守るための設定として各々の道に進んでいるが、「自立できない」という点で、子どもの行く末は共通している。

ではこの要因として、こうした家族のありかたとして何がまずいのだろうか、と考える(小説としての感想からどんどん離れているけれど、そこは許してください)。結論から言うと、「父親が男らしさから降りているため、子どもは家庭において”被支配欲求”を十分に得られず、その結果、外部に被支配を求めるようになる」ということではないだろうか。そしてこれは、女性の利権が日々強まっていく現代において、まさにトレンディな話題だとも思う。

『傲慢と善良』において、真実はその被支配性を婚活の相手に求めている。まさしく「結婚する相手としてピンとこない」という感情が中盤において丁寧に描かれるが、それは言い換えれば「自分よりも優れた男からのみ支配されたい」という欲に他ならないと感じる。それに気が付かされることで、読者は真実が「善良」サイドから「傲慢」サイドへと転落する様子を楽しむわけで、そのへんの小説の書き方も実に……と、長くなるのでこの辺にしといて。一方、『朝が来る』において、ひかりはその被支配性を、間違いなく、巧に求めている。かっこいい男と付き合いたい、ちょっとやんちゃな男の子が好き、そうしたものはまさに、上記の「自分よりも優れた……」という欲に共通するものだ。それだけなら、若さゆえの恋愛だったね、みたいな感じで軽く片付けられるものだと思うが、その一線をひかりは超える。原因は母にあるだろう。「避妊をしないのはさすがにまずいか」という恐怖を超えるくらいに「それでもこの人に愛されるのなら」が勝ってしまうほどの異常な心理バランスは、まさしく、家庭での支配被支配のバランスの崩壊が原因で起きている。自分にはそう読めた。

しかし、ここまで書いていて、ひとつの疑問がのぼる。なぜ、父親の支配ならよく、母親の支配なら悪いのか。真実だってひかりだって、確実に母親の支配を受けている。そこで、被支配欲求は満たされないのか。なぜ、父がそこから降りた途端に、家庭は崩れるのか。もうここまで来ると、小説が関係ないところの議論になってしまった。

ここにも答えはあると思っていて、つまり、「男は対象を条件付きで支配できるが、女は対象を条件付きで支配できない(=無条件で支配してしまう)」というところによるものだと思う。

男の支配というものは、基本的に、その「責任」や「覚悟」というものが乗っかってくるのに対し、そこへの意識と女性の脳は、根本的に相性が悪いのではないか。たとえば、子どもが万引きしたのを怒るとして、「そんなことをしたら店に迷惑をかけるだろ。そんなダサいことをすんな」と怒るのが父であり、「そんなことをしたら近所で噂になって、私が恥ずかしいじゃない」と怒るのが母なのだ。社会への利益や貢献といった面で怒るのが父であり、私の望む子供になっていないという面で怒るのが母だ。真実もひかりも、それを嫌というほど理解しているところに、共通点はある。母というひとりを納得させるために生きることには、シンプルに、インセンティブがない。だからこそ子供はそれに反発し、その反動で、正しい方法で(=男から)支配されることを強く望むようになる。それこそが、婚活でのプライドであり、また、巧との性交渉、そのものだろう。

こう書くと、女性のことを身勝手な生き物のように書いた感じになっちゃうのだけれど、そうではないことは明記しておきたい。

今まで書いたのは、女性には責任感がない、みたいなことで、それが「私のことを満たせないというだけで無条件で反発してしまう」というのにつながるということを言ったことになる。しかし、「無条件で反発される」という性質と、「無条件で愛してもらえる」という性質は、一枚のコインの裏表である。父親において、条件付きで課題を与えられる逞しさと、条件がそろっていないと相手を認められない頑固さが、相反するメリットとデメリットになるのと同じだ。まずいのはあくまで、「”無条件”の概念と相性がいいほうの性が、条件付きでやらないといけないことに手を出してしまうこと」なのだと思う。”無条件”の概念と相性がいい方の性は、やはり、無条件に愛するのがいちばんいいに決まっている。しかしそれでは子どもがフィルターの中に閉じこもるばかりになるため、敢えて、「それが子供のためになるなら」という大義のもと、外界へ放り出し、傷つくことを学ばせる。それが男性の役割になるだろう。ここには「子どものためになるなら」という条件を吟味することが当然必要なので、社会に出るにあたっての「ダサさ」みたいなものを自然と会得している男性がそれを担うのが最適だ。毒母に限ってよく「あなたのためなの」みたいなことを言うが、それが本当かわからないほど、子どももあほではない。そうしたことに無頓着なままでことが進んでしまうと、「朝など来ない家族」ができあがってしまう。

というのを、まさしく反映していると思うのが、最近話題の「チェンソーマン」だ。マキマさんが母親的なポジションで、デンジはその母性とともに成長するのですが……話題のアニメだし、この話はしないでおきます。

ともかく、辻村深月さんの作品ではそれが深くまで描かれていて、そこでこそ説得力が生まれているのは間違いない、と思った。

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