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Youtubeのドッキリ企画と、神がいない問題【『スター』を読んで】

『正欲』ばかりに気が取られていたので、同じく朝井リョウさんの作家十周年記念の作品である『スター』を手に取った。

※惜しまずネタバレをします

大学時代に映画製作で賞をとったコンビである尚吾と紘は、大学の卒業後、映画製作会社とYoutubeクリエイターという二手に分かれて活動し、その両者の視点から、作品を作るとは何か、時代のスターは誰か、そうした問いかけを与える作品だった。

結論から言うと、クリエイター心にかなり刺さるものだったと思う。そうそう、と思わず首を振って頷いてしまうところもあれば、確かに、と自分の心を言い当てられるように思ったところもあり、かなり参考になった。しかし、「参考になった」という感想を抱いたため、自分としては、これは小説というよりも実践書のような立ち位置になってしまった気もする。

本作で最終的には、作品が、その心を出発点に動いている、というところに締められたように思う(泉の説得しかり、千紗の結論しかり)。それを見て「そうするしかないんだろうな」という諦念と、そこが落としどころになることへの暖かさのようなもの、それが半々であったように思う。クリエイターが質を追求する以上、正しいと間違っているの線引きを問わねばならず、その議論の果てに「誰も疑うことのできない心」みたいなところにたどり着くのは一種の決まり文句な気もする。ただそれが決まり文句であるぶん、陳腐な表現なしにそれをまとめ上げる作品というのは、熟考のすえに生み出された傑作だと思った。稚拙な表現だけど、表現が本当に鮮やかなのだ。読者の心の暗転と明転をうまくコントロールされているような気分になる。

さて、この作品を踏まえて、自分の思うYoutube問題を一つ挙げるとすると、結局のところ「神がいない問題」に帰着するんじゃないか、なんて思ったりした。平たく言えば、本当に、今らしいコンテンツなのである。

Youtuberとして活動する人は、ほとんどが、人々の生活の穴埋めとなる娯楽を提供している、という印象だけれど、やはり対比として用いられるのはテレビだろう。自分が中学校くらいまではまちがいなくコンテンツとして主流で、ニュースもバラエティもドラマも、そこから吸収していた。

さて、これらのテレビの特徴として挙げられると思うのは、「問題」が完全に裏に隠されていること、だと思う。問題というのは、「通常の進行を妨害するもの」みたいなニュアンス。僕たちは、お笑い番組を見たところで、出演前の楽屋挨拶の様子を知る由がないし、ドラマを見たところで、その撮影風景がどうなっているのか知る由もない。もちろん、NG集を集めて放送するバラエティなんかはあったりするわけだけれど、それはそれとして独立しているもので、ドラマと並行し、関連しながら組み立てられるものではない。

一方、Youtubeはそれらを視聴者に届ける機会が圧倒的に増えているように思う。もちろん、視聴者は撮影の裏の様子をすべては知らないわけだけれど、その生活感のようなものを公開することで人気を獲得するシーンは珍しくない。ドッキリ企画と題してカメラが回っていないと思い込んでいる人物の撮影をしたり(どこまでがヤラセかは知らない)、ナイトルーティンやモーニングルーティンの動画には、投稿者の生活に近づけた嬉しさのコメントを残す人が少なくないだろう。それこそ、今作でも触れられていた「Youtubeでは人ごと愛される必要がある」という点に通ずるところだろう。ドラマも漫才も、俳優や芸人の人柄がどうとか、そうした影響はYoutubeよりは少ないと言っていいだろう。不祥事と呼ばれる出来事の普遍性は間違いなくそのハードルを高めている。結果、「これは自分たちの問題だ」と自ら打ち明けるコンテンツが主流になった気がする。その代表例が、さっきもチラッと述べた「ドッキリ企画」ではないだろうか。

たとえば芸人の楽屋挨拶とか、そういうのって、「そういう礼儀があるところに笑いの神様が宿る」みたいな、そうした信仰に基づいた不文律があって、そうしたものが、人間個人に宿っている問題を吸収していたような気がするのだ。いわば問題の外部化のようなもので、「めちゃくちゃ性格も悪いが、芸においては命をささげている」みたいなのが許されていた背景はそのように説明できるのではないか。しかし、人として愛せなければコンテンツとしてまかり通らなくなった今、それは「愛されさえすれば何をしてもいい」みたいな意味に反転して、それぞれの愛され方に特化することが求められる。そうして個人主義が進むにつれて、人々は、コンテンツ制作の上で発生する数多の問題を外部化することができなくなった。よってそれが内部に宿り続け、その表出がドッキリ企画(あえて問題を自ら作り、それを表現する)によってなされている。そんなふうに僕には見えていた。

で、だからなんやねん、みたいな話になるんだけど、それが、最後の千紗の力説にめちゃくちゃ重なったのだ。

間違いなく本作の山場であるそのシーンだが、消費者を騙さないことにこだわるクリエイターでありたい、と再確認した尚吾に千紗が語ったのは、騙す人と騙される人は、前者が先にあると思いすぎではないか、ということだった。人間は本質を突き詰めれば、疑いようのない自分の血肉しか信じることができない。その苦痛から逃れるため、あえて嘘に騙されていることが重要なのではないか、という視点が展開されたのだ。その熱弁は実に聞きごたえがあって、そこから僕は、人生とドッキリ企画が重なるような体験に巻き込まれたような、そんな感触を味わった。千紗に、「ほら、人生そのものもドッキリ企画だったでしょ」と諭されたような感覚だった。愛のネタバレは別れ、人生のネタバレが死、そんな歌があったような気もしなくはないけれど、まさにそんな感じに思う。僕たちは、無神教、個の時代、そう言われる世代のなかで、あらゆる問題を外部化できなくなった。時代のせいにもできないし、他人のせいにもできない。各々が各々の信じる神を内部化しないと話が進まなくて、そこになかった問題をわざわざ起こして広告収入を稼ぐYoutuberを馬鹿にできる次元に、少なくとも僕らは立っていないだろう。今のYoutubeとは、まさに自分たちの人生の写し鏡だなと、そんなことを考えた。


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