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「怠惰は罪」という呪いを解いて生きる

大学生の時、ドイツ語の授業の教材がカフカの短編小説だった。『変身』のように翻訳されている有名なものではなかったので、今となってはタイトルすら思い出せない。ただ、その小説の中にあった一文が今も私の人生に大きくかかわっている。
「この世の中の罪の中で最も大きな罪の一つが怠惰である」

怠惰は罪。
このフレーズに出会った時、私の中で何かストンと落ちるものがあった。
決して落ちてはいけなかったのに。

家族がとんでもなく健康で、活動的な人たちだった。
生まれた時から26歳で家を出るまで、私は父・母・姉が睡眠以外で横になっている姿を見たことがなかった。誰一人として熱を出したことがなかった。母も姉もおそろしく健康で勤勉だった。私は母を「鋼鉄の女」と呼んでいたが、そんな母は「おばあちゃん(自分の母親)ほど働く人を見たことがない」と言っていたから、もうこれは血筋というか、DNAなのだろう。

一方、私はといえば、甘えたで病弱な子供だった。歩けるくせに3歳まで自分の足で歩こうとせず、いつも母におぶってもらっていたという。ほとんど毎日風邪をひいていて、病院に通っては注射を打ってもらう日々だった。
しかし、そんな私も「鋼鉄の女」の血を引いていたのか、7歳の時に熱を出したのを最後に、二度と熱を出すことはなかった。(手術の後などを除いては)
人生でかかる病気はすべて幼少時代に終えてしまったかのように、そこからは人一倍健康で、どんなに働いても疲れるということがなかった。
また、だらしない人、すぐ疲れたと言う人、サボる人、怠ける人、向上心のない人、頑張らない人が大嫌いだった。

だから、「怠惰は罪」というフレーズに出会った時、ああ、これだと合点がいった。私がなぜ怠惰が嫌いなのか。それは「罪」だからなのだと。

それからずっと走り続けてきた。
45歳でガンになった。
それを機に生活を変えようと思ったし、実際少しは変わったのだが、本当に変えなければならなかったのは、「生活」の前に根本的な「考え方」だった。でも、それに気づかなかった。
だから、3年後、再発した。(と思う。)

今日読んでいた本の中に、ハッとするような文章があった。

<逃避する人>は、ものすごいエネルギーを発揮して、仕事をたくさんするのです。<逃避する人>にとって、より多く「する」ことは、より多く「在る」ことになるからです。<逃避する人>は、自分が忙しいときに、特に自分が<存在する>と感じられるのです。

<逃避する人>がガンを引き寄せるのは、自分自身に対する戦いをうまく管理することを学ぶためです。

確かに私は忙しく仕事をしている時だけ、自分の存在意義を感じることができていた。それがなければ不安だった。「怠惰は罪」だと言い聞かせ、休むことをしなかった。
誤解しないでほしいのは、決して、走り続けることが悪いわけではないということ。世の中にはもっとハードに動き回っている人だっている。そんな人がみんな病気になるわけじゃない。
要は、何かを「する」理由が問題で、私のように自分の存在意義を証明できなくなることが怖くて、その「恐れ」や「不安」から何かを「する」というのは、心身にとって良くないということ。おそらく、もっと言えば、魂にとっても。
人はきっと「喜び」や「楽しみ」のために、行動するべき、生きるべきなんだと思う。

そんなことを考えられるようになったのは、ごく最近だ。
今年に入ってから体調が悪く、思うように仕事も進まず、ソファでぐったりとして過ごす日が増えた。
私は怖くて仕方がなかった。
怖いのは、病気でも死でもない。こうやって怠惰に過ごすことだ。みんなが一生懸命働いているのに、何も生み出せない時間があることだ。
夫が「休んでいいんやで」と言ってくれても、「あかん、これじゃ、ごくつぶしや」と嘆いて不安になる。
このままじゃ堕落する、と思ってしまう。

そんな話をしたら、中学からの親友も「かおりちゃんはもっと休んでいいんだよ」と言ってくれた。
「それは怠惰じゃない?」
「怠惰じゃないよ。みんなやってるよ」
「罪じゃない?」
「罪じゃないよ」
「堕落しない?」
「堕落しないよ、人はそれくらいじゃあ(笑)」
根気強く、私の質問に答え続けてくれる、聡明で優しい友。

そうか、休んでいいのか。
怠惰は罪じゃないのか。
人はそれくらいじゃ堕落しないのか。
本当に?

まだ半信半疑のままだが、少しずつ私は自分で自分にかけた呪いを解き始めている。
関西人が言うところの「なんや、ややこしぃな」と言われるタイプの、「超ややこし人間」なので、私にはびっくりするほどたくさんの「呪い」がかかっている。
今はそれを一つひとつ解いていっている。

いろんなことをたくさん「する」ことが、私の存在意義ではないと、まずはそれを認め、受け入れなければならない。
「する」ことと、「在る」ことは別なのだ。

もし、自分のことを、「在る」だけでいいのだと、その価値を自分で認めることができたなら、私は変われるような気がする。
そして、今度こそ、自分の「喜び」や「楽しみ」のために生きてみたい。

「恐れ」や「不安」から逃れるための生き方は、自分を締め付けていくだけだったと、ようやく気づいた。

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