義憤という幻想

1. 「理屈と膏薬はどこへでもつく」というように, もはや論拠によって主張の正しさを調べられるというのは幻想にすぎない。 これは真逆の主張を戦わせるディベートという競技が成立し続けていることからもうかがい知ることができる。

2. そもそも, 我々の理性には「認知のフィルター」とでもいうべきものがあり, 同じ事象について「侵略」なのか「開拓」なのか, 「略奪」なのか「回復」なのか, 「愛」なのか「執着」なのか, 「欲」なのか「向上心」なのか, 「羨望」なのか「嫉妬」なのか, 「自由」なのか「身勝手」なのかをまちまちに観測する。 これは「充填された語」と呼ばれる誤謬であるが, 記号論理学のような抽象対象をのぞいて, 議論は意味から逃れることはできない。

3. これらが示すように, 「正しさ」というのは非常に曖昧な概念である。 「ある人が正しいと考えている」がより実態に即している。

4. よって, 「義憤」とよばれる事象は決して「正しき怒り」ではない。 「ある人が正しいと考えている怒り」である。

5. 世の中には, 義憤が溢れている。

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