彼女の本

いつも同じバス。いつも同じ座席に彼女は座る。きっと本好きなんだろうな。白い手に綺麗に塗られたネイルが美しく見えて、彼女が持つその本に興味がいってしまう。
図書館で借りてるんだろうか、じゃないとお財布破産だよな、なんて僕は考える。彼女の想像力、思考力が読めたら、僕はこの長いバス時間の間退屈なんてしない。スマホを見るふりをしながら僕も想像で彼女の本を読む。
自分のどこかで彼女が問いてくる。
「ねえ、今日はこの主人公が母親にいじめられて、昔遊びに行った家の近くの公園で夕暮れを過ぎるまで過ごしてたんだって」
「今日はシーグラスを探しに行ったけど、漂流物がなかったから海の波と裸足で遊んでいたんだって」静かなナレーションのように彼女の声が聞こえた気がした。
僕はいつの間にか馴染みの純喫茶で、彼女と苦酸っぱいコーヒーをミルク多めにして飲んでいた。
僕は笑う。仕事の愚痴なんてより、静かなその声で一緒に世界に飛び込ませるそのネイルの綺麗な手で心に引き込むから、つい顔が綻ぶんだ。
「いいよ、キミとならいいよ」そうつぶやく。彼女は頬っぺを膨らまして怒ったような表情をし、「そうじゃなくて、どう思ったか?って聞いてるのに」その手に合う声で静かに語る。
ああ、平凡なんて言うのは幸せの破片のようで掴みどころがない割れた鏡のようだ。そこに映る僕の顔は無数にいるように見える。
その数だけ僕という存在がいて、でもその奥には彼女がいて。でも映し出されない心の彼女の表情が見えない。髪は何色だっけ、持ち歩いているバッグの色は茶色だっけ、彼女が歪む。

そうか、そんなんだったか。
そして僕は停車ボタンを押し、職場近くのバス停で降りる。いつもの席に座っていた彼女の代わりに黒い服と淡いパールのネックレスをしたいつも彼女の隣にいた女性を横切って。

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