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【写真論】自分の写真家人生を振り返りたくなった

この記事のサムネイルに猫を選んだのは、写真を語る上で猫は外せない問題になってきてるからである。以下の記事を見ると分かる。

これで「ケリ」を付ける

写真について書くのはこれで最初で最後にしようと思うが、最後なのでちゃんと向き合った上でこういう話には自分なりの「ケリ」を付ける。その為に書いている。知って欲しいという傲慢さもあるかもしれない、仕方ないと思う。人間ってそういう生き物なのかもしれない。それでも希望はあると思っている。

人生を狂わせた写真

「魚河岸の街角にて」

ここに1枚の写真がある。何の変哲も無いただの写真だ。僕はこの写真に今まで人生を狂わされてきた。「魚河岸の街角にて」については語り尽くせないほどの想いがある、これも傲慢かもしれない。努力とは何か、撮るとは何か、生きるとは何か、この写真に全て入っていると今は思う。もうこのような写真は撮れないんだなと思うと少し寂しい。そしてこの写真を制作した高校2年の頃、僕は人生で初めて他者から大きな賞賛を受けた。ただすごく嬉しかった、18年ぐらい生きてきて人に認められて慕われて褒められるなんて事が無かった。本当にここまで頑張ってきて良かったなと思えた。この後も確実に結果を出した。失敗なんて微塵も怖く無かった、それよりも絶対的な「何か」が自分を支配していた。本物を手に入れた気になっていた。でもこの当時はそれで良かった。それが甘えだった事に気付かないまま、僕は大学へと進学した。

劣悪なシステム、否定と自省。

授業内で現像したフィルム

まず僕は大学の劣悪なシステムに絶望した。
それまで金を払った分だけ、それに見合った見返りがあるものだと思って生きてきたからそれが「ゼロ」だった事に苛立った。写真学科に入学した。教授は生徒に向き合わない、どいつもこいつも頭の悪い連中しかいない。話など合うはずもない。僕の好きな写真家を知っている人間がいない、写真集を買っている人間がいない。挙げ句の果てには「あの時全く良い写真だとは思ってなかった」とまで言われた。どういう事だ。その時は腹が立った、話しかけられることすら嫌だった。でもそれでも下手な写真でも良いから撮り続けたかった。否定されても劣悪なシステムの中でも抗って生きれば、何か得られるものだと思っていたが「ある日」壊れた。

今まで、自信あふれていた心が壊れた。
他者から思いやりのない言葉を投げかけられ傷ついた。でもそれを隠した。隠すのは上手い、そこら辺の連中より苦痛な人生を生きていたからこれは傲慢でも何でもない。事実だ。
だが、やはり自信が持てなくなった。人間関係も色々あり、「自分が悪い」という自省の念の中でループし続ける負の連鎖が初めて襲ってきた。

学校に行かなくなる

チャリンコ漕ぎながら撮った写真

当然学校には行かなくなった。
あんなところ行ったって何も意味がない、卒業する事すら汚名。「クソッタレ」そんな事を当時は思っていた。今はというと「クソッタレ」は同じだが、やっぱりもう少し無知の方が良かった気がする。知っていることほど怖いものはないなと思う。もっとバカであれば、反骨精神を持たずにいれば、従順な犬であれば、どうにかなったのかもしれない。でも最初から自分はそういう人間ではなかったからやはりなるべくしてなってしまった通るべき通過点だったのかなとも思う。

クラブに入り浸るようになる

行ってた当時の写真

反抗期まっしぐら、取り敢えず週2でクラブに通った。勿論友達などいないので、1人で。これまでクソ真面目に生きてきた自分にとって、これ以上無い刺激で最初は迎えられた。でも飽き性な性格と元々音楽には馴染みのある環境で育ってきたのもあり、普通に負の連鎖がまたクラブで音楽を聴きながらも襲ってきた。「なんなんだこれは」当時の自分は全く分かっていなかった。それよりも気が紛れるものに触れて何かに縋りたかったんだと思う。でもこのクラブに行く選択は絶対間違ってなかった。それは今でも思う。それが無ければ野たれ死んでた気がする。

ファッションに出会う

当時

音楽とファッションは切っても切れない関係性で結ばれてるのを検索していてどこかで見て、僕も「オシャレになりたいお」と思ったのでコアなセレクトショップに通った。そこは僕の「居場所」になって寄り添ってくれた。本当にありがたかった。写真と関係ないので割愛。

フランスへ行く

パリフォト2019
パリフォト内部

写真は好きだったしどうしても諦め切れない想いがあり、撮れないジレンマを抱えつつもパリフォト2019が開催されているフランスに行った。勿論具合は常に悪く、でもそうは言ってもあの憧れのフランスなので撮る事もそこでの出会いも何もかも全てが新しかったから楽しかった。多分今後何があろうと、人生でBEST3に入る旅行だった事には間違いない。そこでとある写真家に話しかけられなかったことだけをかなり後悔している。何かしら運が恵まれてることもあり行った時期は2019年11月、そう、コロナウイルスが流行る直前に行けた。もう向こう何年かは行かないと思う。

VRに出会う

ポカリちゃん

ここでフランスから帰ってきて色々考えてたら、VRに出会った(コロナがきっかけでは無かった)何がきっかけなのかは覚えてない。取り敢えずいつの間にかOculusGoを買って映画を見たり360度動画でワーキャー騒いでたのを覚えている。当時もうコロナ禍で手に入りにくかった初代Oculus Questも裏技で入手して、遊んでた。当然スタンドアローン型だけだと飽きるのでPCを買ってそれにつなげる事により無限の拡張性を手に入れた。写真の事なんかもうすっかり忘れてVRに全てを持ってかれた、こんなの持ってかれない方がおかしい。

現在

昔撮った桜の写真

現在は縁あってこんな僕でも少しだけXRに関する記事を書いたりしてなんとか生活している。昔から文章は割と誉められていたので、写真を撮る行為よりも文体の厚み(その人の人生の厚みでもある)を今は大事にするようになった。新たな写真を平面性からの脱出、機械学習、情報社会、偽物と本物というキーワードを元に考え始めた。さてどうなる人生。

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