場面とストーリー性について思うこと。
私はよくTwitterで考えていることをアウトプットしているのですが、ある日はたと気付きまして、
「これをnoteで書いたら記事になるんじゃない?」
ということでこの記事が書かれています。いわゆる使い回しというやつです。
今の世の中はストーリーのあるものを求められなくなってきている
最近はストーリー性がない動画が求められてるなーって感慨を覚えています。有り体にいえば視聴者に読解を強いるもの。観ることに集中がいるやつ。シチュエーションだけ切り取られて消費されそうな。
こう思うのは動画投稿活動の拠点の一つであるニコニコ動画の劇場系の動画。
直接スクリーンショットを載せるとアレなので検索画面をリンクとして載せます。
私自身はずっとこのジャンルを追ってきているわけではないのであくまで主観の話、ということを言い置いてですね。
いわゆる、シチュエーションを重視したものが増えてきているな、と以前から思っていました。
「シチュエーション」とは「場面」なので、本来はそれだけでは成立しにくいものです。
ストーリーと呼ばれるものを作るには複数の場面が連続しなければ成立しませんよね。
でも、最近はそこに至る道のりはスキップされがちで、快楽的なのです。描写が。
私は昔から物語を書いていたい人(だと思いたい)だから、どうにもそれが断続的に見えてしまうのでした。まぁそれこそ、今の消費嗜好から外れているともいえるのですが。
すぐに役立つ/消化できる・できてしまうものは満足感を得られないのですよ。何事にもそう。だから消費を続けてしまいます。
一度そういうふうになると、視聴者からはもっと同じものを寄越せ、次をくれ、と希求され出します。食べたいものだけを出せ、と窓ガラスを叩かれることになるのでしょうね。ばんばんばん ばんばんばんと。
そんなふうになった周囲から求められるのは単なる快楽であって、その人が生み出したかは二の次になります。
アウトプットの機械になるか、人自身に価値を持ってもらうか、創作をするのなら後者であり続ける方が平穏でいられるはずです。
でも油断すればすぐに足を踏み入れてしまう領域でしょうね。
オマケ:他人の考え方を信奉することの危うさについて
私の立場でいうと、SNSやnoteでもなぜだか最近はフォローという数字が増えてきて、自分のこういう主張が正しいと思われることへ危うさを持ってます。
私としては私の主張は話半分くらいで受け取られる方が良いです。そうです、他人の意見を絶対真理として受け取ることのほうが危ういのです。
人の意見や考え方に絶対的な柱なんてありません。その人がなにをインプットしたか、環境、体調、あらゆるものの影響を受けます。
私は常々自分の意見はひとつの方向性であるため、額面通りに受け取らないで欲しいー、というようなことをのたまいてます。
まぁ、本音はそういうアンチさんと関わりたくないだけだったりします。テキトーに生きたい。
■元のツイート。
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