普遍論争

いまさら普遍論争である。

高校の世界史だか倫理だかで習った記憶はあるが、つまるところ、「実在」する個物とは別にその個物を包含する概念が実在しているのか(実在論)、「実在」する個物を一定の性質に従って分類したものに名前を付けたものが概念であって、個物を離れて概念が存在しているわけではないという考え方(唯名論)の論争であったという。

当時、そのような論争に触れたときは、文字通り神学論争であって、あまり興味はない、どちらかというと唯名論の方が合理的なように思うが、実在論の何が批判されているのかよく分からないという感じであったように思っている。

以後、気にはなっており、例えば以下の本とかも読んでみたのであるが、あまりピンとこなかった(「近代の源流としての」というサブタイトルの意味である)。

さて、最近コロナ自粛の期間に本でも読むかと思い、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を読んでみた。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01LW7JZLC/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i0

単純に人類史を書いたというより、ホモサピエンスの歴史を動かしてきたロジックを、ホモサピエンスの生物学的特性から説き起こすというものであり、人類の歴史を「人類がホモサピエンスである」という制約条件(マルクス的に言えば「下部構造」と言えるのかもしれないが)でもって説明するという試みであった。

その意味で「人類」ではなく生物学的種である「ホモサピエンス」史と銘打たれているが、近年読んだ本の中では最も自分にとって示唆に富むものであって折に触れて読み返したいと思っている。

この本、豊富な実例を引いて大変興味深いのであるが、私の理解だと、その基本的なロジックは一つに集約される。

それは「ホモサピエンスはアフリカの一部に生息していたサルに過ぎなかったが、あるとき脳において「認知革命」が起き、認知能力に変化が生じた。脳の特性として「妄想」(事実と無関係な思い込みという程度の意味)を信じることが出来るというものがあり、その妄想、たとえば宗教、資本主義、王制、共産主義などにドライブされて大人数での協業が可能となった。」というものである。

これ自体はとても興味深いものであるが、その系の話として、人間は複数の矛盾する観念をそのまま併存させることが可能という特性があるという点が挙げられている。これは、妄想というものは妄想であるがゆえに「客観的事実」と相違する点は当然あるものの、あまり解消されずに進行されている例は歴史的にも多くあるし、生物学的、心理学的にも近時も確認されていることであると言える。

心理学的な話としては私が触れた例で言えば、カーネマンのシステム1とシステム2という考え方で、システム1は状況に対して即座にレスポンドするというものであるが、その過程で自分の観念全体との矛盾抵触性が優先的に検討されるということはないだろう。

人間が潜在的に矛盾した観念を受け入れがちである、妄想にドライブされて生きてきているという話は、自分も他人も割と真剣に考えていても、潜在的に、論理操作過程において矛盾した概念をそのまま受け入れて思考しがちである、という点を意識した方がよいということになるし、それはそれで大変有益かなと思っているところである。

ところで、何かを妄想するということと、何かを実在するというように考えることは、実はかなり近いものと言える。例えば、神を妄想するということは、神が実在すると考えるということとほぼ同値であると言える。これが人間の脳の特性として起こりやすい、というのがハラリの含意だとすると、その妄想に引きずられて、人間の歴史はドライブされてきていたと言える。

ただ、当たり前であるが妄想は事実に基づかない。仮に神というものが(この文脈で妄想と使い続けるのが冒涜にあたるのであれば)誰かの頭の中で創造された「情報」なのだとすると、その「情報」からの演繹によっては、事実的な命題を導くことは不可能なはずである。

ここで、ようやく普遍論争である。

普遍論争における唯名論のチャレンジというのは、犬という概念が犬という存在に先行して存在していると考えるという点が、妄想と同じであるという問題意識に基づくものなのだと思う。例えばプラトニズムにおけるイデア的な存在があり、そのイデアに照らして犬の諸性質が明らかになる、ということが可能であるという実在論に対して、それは議論が逆立ちしているというか、妄想であるという主張であったのだと思う。

実在論と唯名論の議論は決着がつかなかったという。決着がつかなかった理由は、おそらく、あるものが存在している/存在していないという問いは本質的には答えがでない、ということに起因していると思われる(ヒュームが行った存在に対する懐疑論的な問いに対する究極的な回答は、まだ出ていない。)。答えが出る形式の問いではないのだ。

決着はつかなかったがのだが、実在論の、存在を前提としそこから演繹的に思考して個物の性質を導きだすという思考プロセスに対して、唯名論は、個物から帰納的に思考して存在に迫る。その思考のプロセス自体が、近代の合理主義、科学革命につながる思考の礎であったと理解できることから、これはまさに「近代の源流」であったと言えるのではないだろうか。

世界史的にみて結構重大な出来事であるようにも思われる「普遍論争」。あまりその重要性が理解されにくいのは、一応、物事の実在をみるときには帰納的に考えるべきだという観念自体は広く社会に共有されているようにはなっており、その視点からみると、この出来事のインパクトが過小評価されて見えているからのように思われる。

それはそれとして別によいのだが、ハラリの本をとおして再度「普遍論争」をみたときに、気にすべきと考えたのは、普遍論争に触れた当時の私の感想である。再度記載する。

当時、そのような論争に触れたときは、文字通り神学論争であって、あまり興味はない、どちらかというと唯名論の方が合理的なように思うが、実在論の何が批判されているのかよく分からないという感じであったように思っている。

科学的、合理的な物事の見方としては、帰納的な推論を行うべきであるということは広く共有されていると思われる。そうではあるが、実在論的な考え方も一理あるというように考えているという部分である。ハラリの人類観も含めると、妄想的な思考/実在論的な思考が自分の中にも根深く存在しているのだなと思うところもある。

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