人は飛ぶ。大切な人ほど。

振り返ればことごとく女性(あるいは自分のリビドー)に翻弄される人生だった。
自分の中に軸はない。満たされて安定した状態では、決めた道を前に進む事が出来る。
しかし外乱が入るとそれに抗えない。マインドが不安定になるのを抑える事が出来ない。
マインドが荒れ狂っている時ほど、観察が重要になる。
内的世界がこの世の全てならば、そこに全ての答えが隠れているはずである。
外に目を向けて探す必要はない。

重要なのは現象そのものではなく、心がどう動いたかである。
現象はディスプレイ、心の動きはアルゴリズムのようなものだからだ。
現象によって心が動くのではなく、心が現象を生み出している。

土台から崩落したような気がした。
人は投機的生き物である。
鉄道が通って駅が出来れば、需要が見込めるので
住宅・商業施設・学校・病院などの街が建設される。
例えば原発事故で地域一帯が使えなくなれば、
全ての計画が頓挫する。

投機性が高いほど、
基幹となるボルトが一本外れるだけで、
一瞬にして全体が瓦解する。

何かを積み上げた、あるいは積み上がる事を期待した、
その蓄積や期待値が高い程、
崩壊した時の心のダメージは大きい。

まだ手にしていない報酬や幸福が
泡のように一瞬で弾けるからである。

確かなもの、着実なもの、
失われないものを心は求める。
永遠に続くものを心は求める。
更に時間と共に幸福が増大する事も求める。

執着や愛着があるものが失われる事を心は嫌う。
食事・睡眠・性欲などの基本的な欲求が満たされている事を求める。
好意を抱いている相手からお返しの好意を求める。

安定した生活、良好な人間関係、愛する家族や恋人、
それらが全て虚無であるという真実を心は受け入れられない。

蓄積や期待が崩壊する時は、自我が真理を思い出す瞬間でもある。
失うものも、手に入れたものも、何もない。
心が経験する現実世界は真理にまとわりついたベールなのだが、
このベールと心の痛みは同じものである。

へばりつかれると心地よく、剥がされると痛みを伴う。
自我自身が最も消失を恐れるが、その恐怖もまた存在しないものである。

魂にへばりついたエゴが執着したり嘆いたりしている。
観察によってエゴと魂を切り離せれば、心の動きは止まる。
魂そのものを見る事が最大の浄化になる。
心の動きと真我を同一視しない事である。

本来他人の痛みは分からないのと同じように、
切り離されたエゴの痛みは知り得ない。

修行者は心の観察者のエキスパートになる必要がある。
心はカルマそのものである。
心に対する深い慈愛を以て、
その傷を癒し成仏させる必要がある。


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