好きを解放できる場に出逢う事

ここ3年くらいで、自分の普段していることが「許す」という役割なのだと気づいたことについて、少し書いておきたいと思った。
コチラも、5000文字課題で一発書きしたものを、一部訂正しております。

他人に言えない嗜好を抱えるという事

「今日で、こういう事をするの最後にしようと思って」
「もうすぐ結婚するんです、だから……」

こんなこと続けていちゃダメかなって思って。
そう言った声は、不自然なほどに明るかった。本人の表情とは真逆だった。

ヒトにはそれぞれ、「好きで好きでたまらない事」が有ると思う。それが例えば、「お菓子が好き」とか「本が好き」だとか、大きな声で言える事である場合もあれば、そうじゃない場合もある。

私は、15年近く「大きな声では絶対に言えない」いろんな欲を抱えている人たちと接してきた。別に知らなくても生きて行けることだから、お誘いはしないが、世の中には作り話のような本当の出来事が行われている場がある。
そういう場でのルールは、むやみやたらに個人情報を明かさない、聞こうとしない。どんな時も中立を保つ。その場で起きたことは、外には出さない。それが守れる人、理解できる人にしか、立ち入ることができないのだ。

秘密、という言葉は、とてもパンチのあるスパイスだ。ある時は甘く危険な香りをただよわせるし、またある時は分厚いカーテンで覆い隠してもったいぶらせる。人間の好奇心は、知らないモノや隠されているものを見つけて、確認することで満たされるという事は知っている。私も、知的好奇心が相当に高いからこそ、「大きな声では言えない趣味嗜好」の人たちが集まる場へ出入りし続けているのである。

「何でダメなの?いいじゃない。好きなんでしょ、こういうこと」
私は、本心からその子にそう言った。
「お休みするだけにしたらいいよ。いつかまた、どうしても来たくなったら、また戻ってくればいいじゃん。もう二度と来れないなんて、決める方がよっぱどつらいよ。」

好きなモノを何らかの理由であきらめた経験は、ある程度の年齢になった人なら1度や2度、経験が有るはずだ。好きと言う感情だけでは、どうにも覆せない現実と言うのは確かに存在する。たとえば、ドラえもんに出てくるジャイアンのように、本人はものすごく歌を歌うのが好きで、歌手になりたいと努力していても、世の中に歌うことが好き過ぎてたまらない上に、歌が上手すぎる人と言うのも結構な人数が居る。そのすべてが、歌手として生活していけるかと言うと、そんなことは無い。
ビジネスとして歌を歌って稼ぐという事は、歌うことが好きなだけでは全然足りないのだ。運も実力の内と言うが、良い歌に巡り合わなければならないし、自分を応援し続けてくれる人が大勢必要になる。それは、歌やダンスという芸能の世界だけでは無い。好きなことが特技であればまだいい。得意なことが必ずしも、自分の好きなこととも限らないのも才能というやつの特徴なのである。

物やコトならまだいい。一番厄介なのは、人間関係での「好きなのにあきらめなくてはならない」という失恋だ。誰かを好きになる事は、とても素晴らしい事だし、人生が何倍も楽しく豊かになる事だ。でも、自分の気持ちですら、移り変わるものなのに、他人の感情がいつまでも自分と同じであるとも限らないし、また、自分とは正反対な場合だってある。同じように気持ちを返してしてくれる関係と言うのは、友人関係にしろ仕事上の信頼関係にしろ、とてもありがたい事なのである。

その子は、10代の頃から、とある嗜好を抱えていた。誰にも明かさず、ずっと一人で楽しんでいたが、ある時、思い切って、同じように「大きな声では言えない趣味嗜好」を持つ人が集まる場へやってきたのだ。おそらく、その子にとってその空間は世界中のどんな場所よりも、幸せで自分らしく居られる場だったと思う。結婚して家庭を持つことが、それ以上の幸せになるのであればいいけれど、結婚相手にバレたくないからと言う理由だけで、自分が好きでたまらない事を手放そうとするのは、ちょっと違うんじゃないか。そう思ったから、逃げ道を提案したのだ。
その子が自分で自分の好きなことを諦めたことを後悔して欲しくなかったからだ。

「一度、休んで、またどうしてもの時は、いつでも帰ってくればいい」

その言葉で、その子はぼろぼろと泣き始めた。

ああ、やっぱり、止めたくなかったんだな。
いいんだよ、結婚するからと言って、全部正直に話す必要なんてないし、嘘を吐き通す必要もない。だって、自分が黙っていれば知られることが無いのであれば、ずっとそのことについて口に出さなければいい。言わずに黙っているのと嘘を吐くのは全然違う。

「だから、安心して」

これが好きなんだと、誰にも言えなくていい。
好きなモノの事を、誰かに認めてもらう必要もない。
あなたが、それを好きでいることは、誰にも邪魔する権利は無い。

そう。私のもう一つの役目は、自分の好きなことを遠慮せずに好きだと言える場を提供することなのだ。それをこの時、その子が教えてくれた。

感情と理屈の折り合いを付けるには

人間として暮らして行く上で、倫理というものがある。それは、大勢の人間が集まって暮らしていく以上、時に必要になる目安だ。
でも、人間には欲があるから、時々、そのコントロールが出来ずに、ルールを破ってしまったり、他人から理解できない行動を取る人も出てくる。

人の欲や願望と言うのは、本当にちょっとしたきっかけで、予想だにしない方向へと膨れ上がっていく。その代表的なモノが、性的嗜好だ。男性の場合だと、女性の身体のどこに目が行き、ムラムラするのか。ざっと思い浮かぶだけでも、胸、お尻、脚。少なくとも3つ以上のグループにわけられるだろうし、女性側にしても、細身のすらっとした中性的なジャニーズ系が好きな人も居れば、ガチムキの筋肉がついた厳つい強面が良いひともいるだろう。
それは、その人の好みだから、他人が良い悪いと判断することでもないし、ましてや禁止するものでは無い。傍から見て、一見不幸そうなダメンズ好きやキャバ嬢やホストの色恋営業に本気になるのも、本人が好き好んで選んでいるのだから、本人が心の底から「止めた」と思うまでは、好きにさせていく方が良い。

あの子はきっと、止めて欲しかったんだろうなと今でも思う。
本気で「止める」と決めたら、本当は止めることすらも宣言せずに止めるのだ。
ダイエットや禁煙のように宣言することで、結果を出せるものも中にはある。でも、宣言することで自分に足かせを付けてしまう場合だってたくさんあるのだ。

私たちは、矛盾したことを教わりながら学校教育を過ごす。集団を乱すことは悪い事だと、足並みをそろえ、時間を守ること、決められたことに従う事を押し付けられる反面、自分らしさを表現しろと、絵を描かされたり、夏休みに自由研究をすることを宿題として出されたり。目立ち過ぎてもダメ、決められた通りに動いていれば「なにかやりたいことを持て」といきなり言われる。そうやって過ごしていくうちに、自分の好きなモノにすら自信を持てなくなっていくのかもしれない。

私にも、大きな声では言えない好きなことはいろいろある。でも、それが私の個性だと今は言える。そして、私が「これが好き」と声を出すことで、身近な誰かが不快な思いをするのであれば、わざわざ口に出す必要も無いとも思っている。好きなモノは、自分一人が「好きだなぁ」とニヤニヤしていればいいと思うのは、私だけだろうか。
そりゃ、「これ好き」「オレモ―」「私も!」と言う会話ができる相手が居れば、より楽しいと思う。でも、別に誰かと好きを共有しなくても、それが好きである気持ちは変わらないし、そもそも、好きになるのに理由はいらないはずだ。

承認欲求と上手く付き合う

SNSというツールが日常的な存在になって10年。この10年で、私たちは、自分の「好き」や「これステキ」に他人からの評価や承認を貰う事に目覚めてしまい、他人から良いと思われないことは無意味なんじゃないか、間違っているんじゃないかという変な遠慮や自己否定を始めているように思う。
そして、それと同時に、誰かの「好き」や「素敵」を否定することで、自分の存在をアピールしようとする歪んだ承認欲求も増えているように思う。特に、SNSは、実名では無く匿名でも発信できるから、尚の事、顔を出さずに好き勝手無責任なことを発信する人も少なくは無い。

しっぺ返しの法則、鏡の法則と言うのがあって、自分がして欲しくないことを相手にすると、して欲しくないことが起きるし、自分がして欲しい事をすると自然と相手がそれを介してくれたり、別のところから返ってくるという。
優しさには優しさが返ってくるし、怒りには怒りが返ってくる。

私は、6歳の頃から「他人に言えない自分の好み」を抱えているからこそ、否定される悲しみも、理解された時の安心感も知っている。だから、「自分の好きを遠慮なく出せる場」と言う場所が一つくらいあってもいいんじゃないかと思っている。毎日そこへ来ることができなくても、1か月に1回、または数か月おき、自分がどうしても必要になったときに、自分を曝け出して解放できる場が有ると思うだけで、随分と気持ちが楽になる。そういう場が、夜の街には暗がりに紛れてひっそりと存在している。

夜の世界が必要な理由

今、夜の街は明かりが消え、皆行き場が無くて困っている。繁華街のネオンは、街の経済を動かす蒸気機関車のボイラーみたいな役割をしていたのではないかなと思う。街が暗いと、活気も無くなり、経済が止まって行ってしまう。夜の街には、飲食店だけでは無く、タクシーやごみ回収、いろんな人の仕事を生み出し、いろんな縁を結んでいく場と言う役割もある。

あの子は今、一体どうしているのだろうか。あれから随分姿を見ていないという事は、「無期限のお休み」を過ごしているのだろう。それで幸せで満たされているのなら、安心だ。こんなことを書くのもなんだが、私の役割はどんどん必要なくなればいいのだ。セラピストとは、本当は必要とされない世の中の方が正常なのだ。
「他人に言えない自分の好きを遠慮なく出したい」という気持ちも、結局は承認欲求だ。他の誰にも認められなくても、自分の好きを大事に出来ればいいし、法律上の犯罪に当たることで無ければ、「へーそういうことが好きなんだ。私には共感は出来なくても、好きならそれでいいんじゃない」という懐の広い人ばかりになれば、他人と比べて、自分が人と違うということに悩むことも無くなるのだから。

全ては陰と陽、光と闇で出来ている

夜の街が生活の一部になって、20年が過ぎる。健全なところから、アンダーグラウンドなところまで、いろんなところを見てきて、いろんな人の好みがあることを知った。夜の闇は、どんなに汚いものであっても、美しいものであっても、優しく受け入れてくれる。一歩踏み間違うと、予想だにしない場へ迷い込んでしまう事もあるけれど、結局、人間は光が好きだし、光の良さを嫌と言うほど理解している。

でも、光は、闇が有るからこそ明るく輝くし、夜があるから昼がある。陰と陽。つまり表裏一体の組み合わせなのだ。

私は、光の中にもいたいけれど、闇にすっぽりと包まれていたいときもある。そういう人が闇の中で迷って、より深い闇へと落ちていく前に、そっと光の方へ押し戻してあげれればいいなと思う。それが私のお役目だと思っている。

もし、誰にも言えないけれど好きで好きでたまらない何かについて、積もり積もった思いを解放したい時は、お力になりますよ。お気軽にご相談くださいね。

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