(小説)未定③

第三章 蝉は最後に何を見る


辺りはもう真っ暗なのに蒸し暑く、ビルの前の自販機でいつものサイダーを買う。
そのまま自転車にまたがって、早く冷房の効いた我が家へ帰ろうとペダルに足をかけたその時、私の目にソラの姿が映った。

ソラは今日も塾に来た。左の頰に痣と、小さな背中に大きなギターを背負って。

そして突然教壇に立ち、
「歌います!」
そう叫んだ。



「何の曲?」
「あれですよ、あれ。」
「?」
「…名前が出てこない訳じゃありませんからね!」
「ああ」

上司は笑って言った。

「流石だ。読み手が青春時代に聞いたあの曲を連想させることで、主人公と重ねてもらおうって訳か」
「…まあ、そういうことです」

あの曲だよ、あの…
名前が出てこないのは、職業病ということにしておこう。



リサイタルは大いに盛り上がった。
初めは怒って止めにかかっていた塾講師も、生徒達の熱に圧倒されて諦め、終わる頃には感動してその場の誰よりも泣いていた。
私はというと…秘密だ。泣いたことがないということになっている。

とにかく、ソラの音楽は確かに人の心を動かした。
そして、私を救ってくれた。

その帰り道だ。

「…あ、ウミだ」
「…よっ」

いつもなら立ち漕ぎで飛ばす自転車を今日は手で押しながら、ゆっくりソラの隣に並んだ。

「ウミも家こっちだっけ?」
「…まあね」

何故コヤツの為なんかに嘘をついたか。もう自分でも分かっている。

「…サイダー、飲む?」
「うわ、間接キス?」
「もう一生あげないからね」
「うわああそれだけはご勘弁をおおお」
「やーだね」
「のどが砂漠なんですよおおお」

ソラは両手でボトルを掴んで、ごくごくと美味しそうな音を立てながら飲んだ。

「…ぱあ!美味しかったあ」
「…こいつ、全部飲んだな!」
「うわああ!ウミ様のお怒りだあ」

謝ろうと思った。ありがとうと言おうとも。
でも、ソラの目は、また真っ直ぐ前を見ていた。
私なんかは見えていない。夢だけ、前だけを捉えている。
その瞳に、そんな言葉は意味をなさないだろうと思った。

代わりに私は呟いた。

「私にだって夢がある」

聞こえないソラははしゃいでいる。

「まだ未定だけど、見てろよ」
「えーなんてー?」
「…あの曲がり角まで競争!」
「うっわ、ずるいぞ!」

人通りの少ない静かな夏の夜道には、懸命に歌う蝉の声と、騒ぎ笑うソラの声、そしてそれをなだめる私の「しーっ!」だけが響いていた。