[『音楽の消費材化』について] 私なりの勝手な私論

音楽と言っても、「芸術音楽」「大衆音楽」とあって、後者の中でも特に「商業音楽」は売ってナンボがベースにあり、そこには著作権や原盤権などの利権も複雑に絡んでくる。

ラジオやテレビ、店頭で流れるだけでなく、発表会などで演奏されても著作権料は発生し、商業的に流通する仕組みの中にある。そういう意味では形態がCDというメディアでなくても、現代において音楽はかなり前から消費材なんだと私は考えます。

作詞家、作曲家、音楽出版社、レコード会社、演者と多くの人が介在し、そして買い手がいて初めて成立する。

作り手、売り手にいくら想いがあれど、どう受け取り、どのように消化するかは買い手(消費者)側に委ねられる。「男なんかしょうもない」と訴えかけても「それで生きる勇気が持てた」と応援ソングに受け止められることも、またその反対もある。故に消費の仕方は様々であって、固定的なものではない。ポピュラー音楽の、それも20世紀以降の音楽において現在でも聴く事の出来るものは鑑賞に耐え得るものであり、実際にはその数倍以上の音楽が時代時代によって消費され、姿を消している。

その中でもアイドルの音楽には、楽曲だけでなく演者への「応援」としての側面が浮かび上がる。それは近年の演歌の中でも同じ構造がうかがえる。販促としての「握手券」などは1970年代、80年代にも存在しており、それ自体が特別な消費材化の象徴では決してない。

むしろ現代における音楽の「消費材化」と言えるのは、音楽の「所有」乖離なのではないだろうか。日本の某チャート(これまた商業的仕組)は出荷枚数を競う材料となっているが、欧米においては音楽のオンライン化と販売店、メディア流通の仕組みの衰退が顕著である。(そんな時代に何故かアナログ盤の復権が起こっているのが不思議でならない)

日本においても一時期配信も落ち込んだが、最近ではストリーミングがダウンロードの売り上げを超えたというニュースがあった。つまりこれが音楽の「所有」から「聴き流し」への価値の変化であって、それこそが現代における音楽の「消費材化」なのではないだろうか。
実際には過去の聴かれなくなった音楽も聴き流されたとすると、それは商業音楽の性質なのかと立ち返る次第。

着地が甘いな…(うまくかたちにできないのは力不足)
長々とごめん。

普段から思ってることを推しちゃんのレポート読んで吐き出してしまった。