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低気圧でなんにもできない日のヒント

昔「新月と満月の前後を過ごすヒント」という記事を書いたのですが、これかなりアクセス多いんですよね。なぜか。


低気圧で何にもできない日。雨で何もできない日。満月の前後や新月の前後。などなど、何もできない日。なにもしたくない日。

のヒントを書いてみようと思います。

・体をあたためる。

前日薄着で寝たり、クーラーつけっぱなしだったりしてないかしら。

服を着る。お布団に入る。お風呂に入る。くつしたを履く。

・生野菜やフルーツばかり食べてないかしら?

コーヒーとかお酒とか、刺激の強い飲み物ばかり飲んでいないかしら?

身体が冷えるので、温野菜にしてみては? ファミレスで仕事するとき、ドリンクバーで、3杯コーヒー飲んでいたとしたら、1杯くらいお湯だけにしてみては?

・ずっと音のする場所にいなかったかしら?

ファミレスとかカフェでずっと音楽鳴ってるところにいると、意外と疲れるものです。家でずっとYoutube流してたり。

・たくさんの人に会いすぎていないかしら?

仕事でそういう人は仕方ないところもあるのですが、自分ひとりになれる時間をつくってみては。

家に一人きりになる部屋がないティーンエイジャーのために、室内に張るテントを買ったという人の口コミを読みました。


そもそも不特定多数の人に会う仕事が向いていない。という人もいます。私もそうで、新卒の時、世間的にはよいといわれる会社に就職できたのはいいのですが、営業職の部署に配属されて、人に会うのもものを売るのも向いてなかったので、本当につらかった。あと密室の会議に座っているのも無理だった。管理部門に異動にしてもらって、だいぶ楽になりました。管理部門はそれはそれでつらい面もありましたが。

自分探しの範疇(これは「悟り」の問題なので最終項参照)にはいっていくのですが、世間的に良いといわれているから、親が安心するから、働かなければならないから。という理由で自分の興味や関心を探っていくことをおろそかにしたまま、居心地の悪さを無理して生きていないかしら。20代のころの私はそれで耳鳴りなど、いろんな体の不調が現れたのですが、それって苦しいですよね。

・冷蔵庫の中身を見直す

自分が体によさそうだと思った野菜や小魚、意外と食べずに残って外食ですませてたりするんで、これで料理してみる?

・お金を使わない日をつくる

なんとなく外で済ませてしまうと、外食とかお惣菜って油多いですよね。

・インターネットを全部切る

SNSは見ない。読もうと思っていた本をぱらぱら。


・観念して休んでしまう。布団に入る。

思えば私は会社員だったとき全然社会人として成立していませんでした。よく遅刻するし、よくおなかいたくなって帰るし。でもまあそれで有給が減っても、欠勤になっても、あなたのために仕事してるんだから、自分のために仕事してるんだから。こんな日は休みましょう。「おなかいたいからやすみます。」

・瞑想を習う。

ここまで色々とうりうりと書いてきましたが、対処療法というか、根本解決じゃないんですよね。そういう自分を否定することは決してないですが、事実として低気圧のせいで伸びている時間は何日もあるわけで。

詳しくはここに書きましたが、2017年から世界的な第一人者の方の元でヨガ瞑想を習っています。国連で平和のスピーチなどしている人。


宗教っていうよりヒマラヤの伝統的な瞑想方法、かつてヒマラヤの王族が実践していたという5000年の歴史のある瞑想方法を習うので、宗教の源流とか、超宗教という位置づけみたいです。

いただいたヒマラヤの瞑想をしばらくやりながらじっとしていると、今日一日もう観念して休もう、っていう日も、不思議と30分から1時間ぐらいですっきり普段の体調に戻るんですよね。それでその日必要な勉強や仕事などできるように戻ります。

別に瞑想を習っているからといって、すぐ自分が悟りを得た人になったわけではないので(先生は世界で二人だけいる悟りを得た人なので、自分も悟りへの道を歩いているわけではありますが)、普通におなか痛い日も頭痛い日もあるし、人と喧嘩したりとか人の悪口いっちゃったりする日もあるんですが。

でもなんだか、昨日食べ過ぎちゃったからな、とか、自分の体を無視して無理していたなとか、ちょっとずつ振り返って大事にすることができるんですよね。対人関係も同じく、相手のこと尊重したものの言い方じゃなかったな、とか、ちょっとずつ反省できるわけです。

自分とはだれであるのか、自分の適職はなにか、自分はどういう環境が向いているのか、自分の好きなことはなにか。自分はなぜ生まれたのか。なぜ仕事をしなければならないのか。自分はなぜ不運なのか。…etc.

こういった問は、新卒の就活などでよく「自己分析」と軽い感じで片付けられますが、広い意味では「悟り」という仏教用語になります。

悟りを得る、というのはブッダが苦行で目指したもので、その後「瞑想」という手法で悟りを得られました。その後悟りを得た人は数世紀に1人か2人現れるぐらいの頻度。現代社会には2人いるだけです。


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うまく説明できないのですが、私が自分の中では腑におちているのは、自分は別にネイティブレベルに外国語ができるわけではないのになんとなくこの数年で(小さいころからあこがれだった)外国語に関わる仕事ができるようになったのは、ここで自分の中を観察する安全な瞑想という方法を教えてもらい、自分の中に平和と静寂を作る練習をしていったおかげです。

少しずつ身体が整っていって、新月や満月の前後、低気圧で振り回される時間が少しずつ減っていって(さらに当時はPMSなども酷すぎたので、本当に毎月何日もの間、社会的に全く使いものになりませんでした)、勉強できる日が増えるようになってきて。そしてだんだんと、私に協力してくださる心の美しい大先輩や師匠たちが現れていって。自分ひとりの力だけでは絶対に無理でした。

自分の力でがんばって生きて、自分の力で頑張って生きなければならないるような気もしますが。今生を人間として運よく生まれて、神さまに心と体をかりて生きている以上、かみさま(*ここでは唯一神ではなく、そこらじゅうにいる、目に見えない大いなる力みたいなニュアンスです)に愛される生き方というのはどういうことなのか、ということをちょっとずつ学んでいっている過程と思います。









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