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情緒不安とSNSと人ひとり

なんだかここ数日情緒不安定で、こういう感じな不安定さは二十歳の頃以来である。
多分ホルモンバランスと季節的なもののせいなので漢方みたいな薬を買って来た。
効用はだいたい被っていると思うし販売元ホームページにもそう書いてあったのだけれども、若い人向けの薬より更年期障害と書かれた薬の方がなぜか安かった。

二十歳前後の頃はもう恐ろしいほど情緒不安定で、だいたい月の4/5はこんな感じの感情を抱えていたように思う。
そういう時に自分がどうしていたかと言うと 当時流行りだしていたブログを書いていた。
ただひたすらに書いていた。今のこのサイトは下書きをするとお疲れさまと言ってくれるのだけれどもお疲れさまだなんてとんでもなくて、 ちっぽけな私は自分の存在をかけてただ自分のために、ひたすら書いていた。 当時親しい人お世話になっていた人はよく私のブログを訪問していたけれども、とはいえ誰にも読まれなくたってよかった。 当時付き合っていた人のことや性的な感情というのも おそらく一時的なものであり私自身ではないような気がしていたのでそういうのは一切合切排除して、ただ自分の生存感覚だけを書いていた。むしろそういう性的な感情に自分の感覚が振り回され、自分の感覚のなかに土足で入られるのが本当に嫌だった。
当時関わっていたひとたちには悪いけれど、多分この人とたちとは一緒にならないという直感みたいなのがあったんだと思う。
昔、時々会っていた人が、私たちのことを「深い関係」と表現していてなんだかすごく不思議な気持ちになったことがある。自分の中で性的な関係を持つ相手と指一本触れなくても脳と感覚が共鳴する相手というのは乖離していたからだ。 あるいはあの人は私のことがものすごく好きだったからこそ頭蓋骨骨折してても時間を作っていたのではないかという仮説もあるけれども、当時のわたしは鈍感すぎたしそれを受け取る社会的器量がなかった。簡単に書くとつまり好きだけれども未来が繋がらないというやつである。だからその人は私の20代の頃のかなりのエネルギーをもっていったけれど、その時の感覚は書き残していない。

当時書き続けたブログには個別具体的な名称、出来事とかも一切書いていない。
だから何県に旅行に行ったとか、何という電車に乗ったとか、何の店に行ったかとかもそういうのも一切書いていない。本当に感覚的なことしか書いていない。

10代の終わりの自分の情緒不安定。巫女の素質がありますね、と宗教学の指導教授には言われていたのだけれども、その後女としての身体が大人になっていき落ち着くにつれ( 落ち着かせるためにも大変色々あった)、自分が書く文章もあまり面白くなくなっていったようにも思う。
あの恐ろしく情緒不安な日々を繰り返さなくていいのであれば、多少文章が面白くなくなったって構わないのだけれども。 生きている本人としては その不安定な日々がそれだけつらかった。あの日々を繰り返さなくていいのであればもう何もかけなくたっていいというくらい。

SNSを少し整理した。
そこに居る時間が多くなってしまって自分と他人を意図せずに比べてしまう時間が多かったように思う。相互フォローの語学関係の方はのこしてあるはずなのだけれども、多くをミュートにした。 

仕事の宣伝ぽいことを書いていたりもしたんだけれども多分本当に縁のある人やわたしのレッスンに興味がある人は検索して私のブログまでたどり着いてくれるので、まあそんなに宣伝考えなくてもいいかなっていうことになった。なのでSNSから語学教師という肩書きはとりあえず外すことにした。語学教師と書いてあるだけで1日1、2人のフォロワーさんが増えてくれるのだけれども、 昔 Facebook をやっていた時の違和感と同じと言うか、たくさん書いているのに誰からもなんの反応がなくって、なのに久々に会ったら私の近況はなぜかみんな知っているというやつ。 あと私のアカウントが標本のようにリストに入れられているやつ。 別に私、翻訳者などとして公式情報を発信しているわけでもないのでカテゴリーに入れられて標本とされても困る。私は私でしかない。

タンバリンの演奏家のyoutubeを見ていて、そこからhirasawaさんという現代の天才の存在を知った。知れば知るほど天才過ぎて苦しい。 彼のSNS を拝見したのだけれども 生身の人間がただツイートするだけなんだけれども、文章が感電してしまうような感じで、あれは一旦作品にしてまるめてもらってから拝見して感じ取り享受した方が良いという結論で私はその人のSNSはみないことにした。

話がそれるが、ロシアのフィルハーモニーも美術館も感じすぎて動けなくなってものすごく疲れてしまうので、通えるようになるまでだいぶ時間がかかった。

インターネットを、SNSを切断して自分と過ごす時間。
最近親の老いをすごく感じるのでこの先ずっと一人だったらどうしようと思ったりもするのだけれども。
最近若い友人達に何人か会ったのだけれども、パートナーがいて、子供がいて、あるいはもうすぐ生まれて。最近恋人ができたという若い友人にもあった。友人が幸せなのは私も嬉しい。近況をほじくり出してのろけ話を一生懸命してもらうのはとても楽しい。

人を、誰かを求めているような一方で、そういった世界はガラスの向こうの出来事のような気がすることもある。
大変なおしどり夫婦だった祖父母のことは憧れだが、そういうものが私に縁があるのかも分からない。
自分の中のひとりの時間を研ぎ澄ませて生きているように見えたあの人が、家族をもち父になりつつあるその日々にどんな感情を抱いているのか、本当は聞いてみたい気もする。一度会っただけなので実際会ったところでそんなに深い話を聞くかはわからないけれども、 実際きいたところで言葉に出てくるものと彼の中の感情ってまた別のものだと思うけれども、多分私が言わんとすることは分かってくれると思う。 私の文章を読んだ彼は他人と思えないと言ってくれたけれども、私も他人とは思っていない。ただ邪魔をしたくないのでどうすればいいかわからないだけ。

仕事も、家も、財産も、形のあるものもペットも、親も家族もパートナーも、あるいは子供も、いつかは何らかの形で別れなければならない。最後に残るのは自分ひとり。それでもやはり人と繋がろうとし、人を恋しいと思い、インターネット上の仮想空間でも人と繋がりたがるのは何でだろう。

Спасибо Вам большое:)♡!!! ありがとうございます:)♡!!!