作品で何を伝えるか?
本当は今日、「アレンジの時代性」について語ろうと思っていたのですが、先日YouTubeにアップした「幸せに気づかずに」のリメイク版
(これです↓)
の前にあったオリジナル版を聴いて、この記事を投稿することにしました。
きっかけは、リメイク版をYouTubeに公開した後、ピスタチオさんから、リメイク前のバージョンも聴かせてほしい、という話があったのですが、お断りしたことです。
やはり前のバージョンに課題があったからこそ、これじゃ配信やってはダメだなと感じ、リメイクした訳ですから。
でもその判断をしたのはもう数か月以上前の話なので、何が問題か、ということは正直覚えていませんでした(笑)。
で昨日聴いてみたんですよ。
まあそれは酷い出来でした...。ピッチはYouTubeにアップしたものより「正確」なのですが、ただ熱唱しているだけで、何を伝えようとしているかが全く分からない作品でした。
ピアノの右手がメロをなぞっているので、なおさら熱唱感が強調されるんですよね...。歌モノではやはり「詩をどう伝えるか」が大切なのに、その部分が抜け落ちて、ひたすら頑張って歌っている、みたいな。
かなり前に書きましたが、ある方から自分の作品を酷評されたことがあります。
「宮廷音楽隊のストリングスが王子の登場を待ち構えているところに、小学校の先生が出てきて伴奏のようなピアノを弾きだし、王子が出てきたと思ったら、白いTシャツを着た森山直太朗が出てきて、宮廷音楽隊が王子、どうしてこんなことをしているの?、と戸惑っている感じ」だと。
さすがにカチンと来ましたが、森山直太朗さんかどうかはともかく、確かにちぐはく感としては似たようなもので、その方のおっしゃる通りなんですよ。
歌うことに必死になっていて、その曲で何を伝えたいのか、が抜け落ちていたんですよ。特にこの曲は「詩先」なので、「詩」をいかに伝えるかが大切なのに...。
それはピッチの正確さ(オリジナルも決して正確ではありませんでしたが(笑))ではなく、如何に詩の世界観を伝えるかにあるんですよ。
「詩」の世界観を如何に伝えるか、を考えると、やはりこの作品は「歌の録り直し」はマストだろう、と思い、詩をもう一度読め直して、どんな歌い方をしたらいいのか、を考えて制作しました。
そういう意味では、酷評してくれた方には感謝しています。
その指摘が無ければ、リメイクするにせよ、ポイントのずれたものになっていたと感じています。