DTM103

DTMとは少し毛並みの異なる話ですが、何となく「アボイドノート」が浮かんだので記事にすることにしました。

実際DTMにとっても意味のある話ですから。

「アボイドノート」、良く言われる言葉な割に明確な説明、無いんですよね。

「使っていけない音ではない」なんて言われると、なおさら意味不明ですよね。

目立つ部分では使わない方が良い、等と言われても「方が良い」では結局どっちなんだよ、という話です。

それって理論的な意味合いからですら説明不能ですから。

まず一つには、コード上のアボイドノートとモード上でのアボイドノートが混同されている点にあると思います。

コード上のアボイドノートって単に響きの問題だけじゃないですか。これって単に主観の問題であって、実際には意味を持たない。

響きの悪い音楽=ダメな音楽、という訳ではありませんから。

ロマン派末期のクラシックや現代音楽ではアボイドノート的な音、普通に使われる音だと言って構わないでしょう。

モードのアボイドノートはもっと曖昧ですよね。

一般的に言われていることって、ほとんどが「静的」な意味でしか書かれていないんですよね。

時系列が無いのです。

前後関係がない中で、この音がアボイドノートだと決めつけるから、結局良く読むと訳の分からない説明になっていることがほとんど。

これって実は「音楽理論」一般に言えることなんですよね。

前後関係を理論化することって非常に難しいんですよ。和声進行位でしょう。理論と呼べるようなものは。

「音楽理論」ってある意味「音楽の単純化」なんですよ。

既存の音楽から「一般的にあてはまる事象」を抽出したものが「音楽理論」です。

だからあてはまらないものは切り捨ててしまう。

音楽ってもっと曖昧で複雑なものなのに。

もちろんそれを前提として「音楽理論」を学ぶことには意味があるんですよ。

ただ実際には教条主義的になってしまう方、多いんですよね。

あくまでも「音楽理論」って自分の立ち位置を把握するものでしかありません。

そのことを忘れると「新しい音楽」は生まれない。

何だか最初のテーマから外れてしまいましたが、まあいつものことなのでまあいいか(笑)。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。