旋法⑯

とりあえず教会旋法の話は昨日で終わりましたので、今日はこういった旋法の持つ現代的意義について書きたいと思います。

今の時代はやはり、どちらかというと調性が揺らぎつつある時代だと感じています。

もちろんこんなことは例えばクラシックであれば後期ロマン派以降、実際に起きてきたことなので、何を今更、という風に思われるかもしれません。

ただ、こういうことが起こっていたのは、その結果崩壊したクラシック及びその末路としての現代音楽、複雑化しすぎたジャズの世界の出来事であったと考えています。

これに対してポピュラーは一般的に調性感のある音楽が多いでしょう。やはり耳に馴染んでいるものの方が受け入れられやすいのだと感じています。

ノンダイアニックコードの使用も限定的なものであり、大半の曲では一時的に使用されるものでしかなく、調性を乱すような使用はあまりされません。

転調というのも調性が成り立つことが前提にある訳で、調性が無かったら、転調も何もあったものではありません。

まあひたすら転調し続ける場合は、調性感は薄くなりますが(笑)。

ただ、これはあくまでも「これまで」の話です。今からも同じような状況が続くとは限りません。

むしろ、「新鮮さ」を出すためには音楽は変化していかざるを得ないでしょう。

それが顕著に出たのが、クラシックなり、ジャズの複雑化だと考えています。

実際に日本でも、ポピュラーで使われるコードなりコード進行は明らかに複雑化してきていますよね。もちろん音楽の性格上、クラシックやジャズのような聴いていて「え?っ」って感じるような変化の仕方はしませんが。

ただ、やはりこのような変化が同じことがポピュラーでも起こる可能性はあると感じてもいます。

もちろんそういう音楽の良さというものを否定する訳ではありませんし、やはり良いものは良いのですが、全部がそうなってしまうと聴いていて疲れてしまうでしょう。

そしてその時点で、ポピュラーがポピュラーではなくなってしまうでしょう。

だからと言って、昔の「歌謡曲」の世界に戻ることにも意味があるようには感じられないんですよ。

昔と同じことをやるのであれば、昔の曲を現代風にカバーすればいいだけの話で、新しい作品を制作する意味がありません。

それを避けるために、今は使われることが少なくなった過去の手法から学ぶことに意味がある、と感じています。

そのための方法論として「旋法」というものの現代的意義があると感じています。

何だかまとめ的な内容の記事になってしまいましたが、まだ記事にすると言って、記事にしていないことがあるので、もう少し続くと思います。


ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。