作曲の方法論②

で、次は楽器で曲を作るか、詩先で曲を作るか、その2つの違いについて書いてみたいと思います。

実は以外に詩先って多いんですよね。鬼束ちひろさんについては先日の記事でも触れましたが、aikoさんも実は詩先だ、という話を聴いたことがあります。

筒美京平さんは両方やっていたそうで、2つを並行作業で行っていたそうです。例えば松本隆さんが詩を書いている間に、曲先で1曲作り、詩が上がってきたら、曲先で作った曲を松本隆さんに渡し、詩を書いてもらい、同時に松本隆さんが書いた詩を受け取り、曲を作っていたそうで。

実に効率性が高い作り方で、大量生産向きなシステムですね(笑)。

音楽作品って一般的には曲先のイメージですが、意外に詩先が多い、というのも、自分のようなミュージシャンの端くれでも分かるような気がしています。

まず、「詩」という制約故に、自分の思うように曲を作る訳にはいかない、というのが大きいと思います。

もちろん、勝手に詩を変えてしまうような作曲者であれば別ですが...。

やはり詩先だと、詩に合わせない限り作品にならないから、自分が意識しているかいないかは関係なく、曲に自分ひとりだと陥りがちな「自分の癖」が出やすいと思います。

そこに「詩」という制約が加わることによって、思うように作れないからが故に、普通に曲を書いていると考えも付かない、自分の癖がある程度封印された作品が出来るきっかけになると考えています。

後、それが故に生まれる「オリジナリティ」もやはり魅力なんですよね。「人に合わせる」ということは「オリジナリティ」とは真逆のように思えるかもしれませんが、あくまでも曲を作るのは自分自身でしかない訳で、そこに必ずしも音楽的とは限らない、「詩」という要素が「前提条件」として加わることで、自分自身でも想像出来ない作品が生まれるものです。

「異質のもの」というのは自分自身が変わっていくためには不可欠なもので、それを「詩先」という方法が助けてくれる、そんな感じでしょうか。

多分筒美京平さんも「木綿のハンカチーフ」のような、音楽的には難しい詩を渡されたことによって、自分に変化が生まれたことを自覚したんだと思うんですよ。

詩先は場合によっては苦しい時もありますが、それ故に出来る魅力というのがあって、だからこそ重要な作曲の方法だと考えています。

もちろん曲を付けることを過剰に意識した「歌詞」からではあまり意味がありませんが...。

だから曲を付けにくい曲ほど魅力的なんですよね。苦労する部分ももちろんあるので、なかなか積極的にやる気にはなりませんが、やはり「魅力的と感じる詩」に出合ったら、チャンスと捉えて制作してもみるといいかもしれません。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。