モテるための努力ができない理由

高校から大学にかけてモテるための努力を多くの人はするだろうが、なぜか僕はその努力ができなかった。なぜできなかったのか、その理由を最近ようやく言語化できた。

こと男性に関して言えば、モテるための努力というのは「男社会で認められるための努力」なのだ。
つまり、純粋にあの女性に振り向いて欲しいから、という努力はありえず、その努力は常に世間の眼差しによって権力獲得のための努力という意味合いを帯びるのである。そして厄介なことにモテるための努力をする本人もそんな世間の眼差しを内面化している。自分の努力が恋愛のための努力なのか、権力のための努力なのか、冷静に考えるとわからないのではないか。

この「モテるための努力」と「男社会で認められるための努力」が分離しえない構造になっているがゆえに、純粋に恋愛を楽しみたい者やおしゃれがしたい者が「権力者=リア充」としてまつりあげられ、逆に恋愛に興味がない者は「陰キャ」として貶められる。

僕だって人並みに性欲を持っていたけど、恋愛のための努力が勝手に外部から意味付けされてしまうことに反発を覚えていたのだ。世間からの勝手な解釈を恐れていたのだ。
「彼女がいれば男社会で認められる」「自分で自分を肯定できる」という論理は、女性を手段として扱うことと同義である。そして、この論理は必ず恋愛をしようとする己の心の中に忍び寄るのである。

物語を押し付ける暴力の恐ろしさが最近になって分かるようになった。これは、貶められるのが苦しいというのではない。祭り上げることも同じ暴力なのだ。

もっとも、本当に強い人間はそのような外部からの意味付けを拒否しうるのだろうが。

といってモテないことで貶められた人が「見返す」ためにモテるための努力をするのもどうかと思う。それは幸福な恋愛には結実しない気がする。それは結局、「モテる=偉い」という価値観の中で戦いを挑むことでしかない。
本当の敵は、パートナーの有無とその人個人の価値を結びつけようとする価値観そのものなのだ。

そういうことを薄々感じ取っていたがゆえに、私はモテるための努力をしなかったのかもしれない。かくして、こじらせ男子が生まれるのである。

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