おしゃれを学校で教えるべきか?

人を見た目で判断してはいけないというが、看板娘という言葉があるように、女性の容姿は特にサービス業では一定の集客力を持つ。これをルッキズムによる差別として是正すべきか、はたまた容姿も能力の一つと認めて看板娘に追加報酬を与えるべきか、そこの問題はひとまず脇において。

今日は、おしゃれを学校教育で教える可能性について論じてみたい。

結論から述べると、容姿もまた学力や体力と同様、後天的に磨かれるべき能力であると考えるならば、学校教育で基礎的なおしゃれの技術を教えることが正当化されうるということだ。

人を見た目で判断してはいけないというが、その根拠として、「人の見た目は変えられない先天的なものである」という考えがある。先天的なものによって人を評価することは悪である、という考え方だ。確かに重度のアトピー患者など特殊な事情がある人々はいて、彼らは例外かもしれないが、メイク技術が進歩した現代においては、容姿もまた学力と同様、後天的に磨きうる「能力」なのではあるまいか?

成績の悪い者が後天的に猛勉強をして成績をあげることを批判する者はいないだろう。もともとサッカーが下手な者が猛練習をしてレギュラーに選ばれる努力を否定する者もいないだろう。

ならば、もともと容姿の悪いものが(失礼!)化粧やおしゃれによって容姿を磨くのも正当な努力とは言えまいか? メイク済みの顔を「偽物」「化けの皮」などといって批判するべきではないのだ。メイク済みの顔もまた、努力によって得られた学力や体力と同様、それ自体として評価されるべきものだ。偽物でもなんでもない。

学力やスポーツについては後天的な努力が重んじられる一方、容姿については「素材主義」ともいうべきものがまかり通っている。「ブスがお化粧してもキモいだけよね」というような価値観だ。

しかし、容姿もまた学力やスポーツの能力と同様、後天的な努力によって磨きうるものであり、またそれが社会の側から一定程度まで要求されているのなら(それが社会的価値を持つものならば)、学校教育でおしゃれを教えることが正当化されるのかもしれない。
学力もサッカーの技術も「素質+後天的な努力」によって開花するが、容姿もまた「素質+後天的な努力」で開花する。ならば、その後天的な努力の端緒を公教育で与えることは合理的である。
「勉強は才能がすべて」という価値観が誤りであるのと同様、「容姿は素材がすべて」という価値観もまた誤りなのだ。

体型にあった服の選び方、肌にやさしい化粧水の付け方など、私は分からないけれど、それらを学校教育で教える。(美術か家庭科の時間か?)

わりといいアイデアだと思うのだが。

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