差別と好みの違い?

「どんな女性が好みか?」と聞かれて「白人女性です」「肌の白い女性です」と答えると差別問題になりかねないというのは多くの人が考えるだろう。
では「ショートヘアーの女性が好きです」と答えたらどうか。この場合は差別には当たらないというのが常識的な感覚だろう。

なぜ髪型の好みは差別ではなく、肌の色の好みは差別なのか。
この辺りは少し気になるところだ。
髪型の好みが差別に当たらない理由としては、「髪型は自ら変えられるから」というのがありそうだ。
では「金髪の女性が好きです」となるとどうか。アメリカのリベラルの感覚だとアウトなのか? ちょっとわからないが。

容姿の好みということについて、それを語ること自体が差別という意見はあるだろうが、そこにも程度があるように思う。
「二重の子が好きです」「若い子が好きです」etc.

一つの基準(?)としては「それが先天的なものか、後天的なものか」という違いがあるように思う。
肌の色は先天的だが、髪型は後天的。などなど。

先天的な属性で人を判断してはならないのか?

では、「指の長い人が好き」はどうなのか?

もう一つの基準としては「好みの分散」があると思う。
皆が好きな属性あるいは、嫌いな属性という偏りがあると大変なのだ。逆にそういうのが好きな人もいれば嫌いな人もいる、という風に好みが分散していれば差別とはなりにくい。同じ「先天的属性」による判断でも「私は土踏まずが深い人が好きなのよ」では差別にはなるまい。

好みと差別の関係は僕にとってはこだわりたいテーマなのだ。「なんとなくこいつはムカつく」「なんか好きになれない」「まあ、あいつなら仕方ないよね」
そういう序列付けは誰もが胸のうちで行うことだ。

その理由が「肌の色」にあれば本人は「差別だな」「こちらが悪いな」と気づく。アトピーなら「病気なんだから」となるだろう。だがそうでないときは「本人の問題」として気持ちよく攻撃してしまうのだ。加齢臭、ハゲ…はまだ分かりやすかろう。それを理由に攻撃するのは悪いと分かろう。

だが、なんとなくむかつくというレベル。その「なんとなく」を万人から浴びせられる人がいたら?
しかもそれが社会的にいまだ認知されていない差別であったなら?

「なんかムカつく」の延長上に差別がある。これこそ人間の諸悪の根源ではあるまいか。

話はずれるが、「上から目線」というのも危うい言葉に思える。

「あの人上から目線だよね」
その言葉、なんとなくムカつく奴に対して使っていないか?「上から目線」の根拠をきちんと言えるか?

「まあ」を多用する奴は上から目線、「でも」はダメetc.足を組む奴は偉そう、などなど。

「あいつ上から目線だよな」を多用する者もまた「上から目線」なのだ。

自分への戒めなのだが、他人のことを「傲慢だ」「調子乗ってる」と思うとき、本当に傲慢なのはこちら側である可能性が高い。

幼稚園の時に言われた「バカと言った方がバカ」は真理であるように思える。

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