所有のフィクション

所有ということの不思議さ。僕の持ち物には名前が書いてあるわけではないが、みなそれが僕のものだと認識している。人間社会の「所有」は動物の縄張りとは少し違うようだ。というのも、「所有」は個体の位置に束縛されない。つまり、何千キロ先の土地であろうと、それが私の所有物であることは成立する。ヒトの「所有」は空間的な束縛を受けないのだ。
「所有」はフィクションであるといえる。(フィクションだからこそ領土の「実効支配」「不法占拠」などといった言葉が成立する。特定国の軍隊がそこに上陸している状況を二通りの言葉で指し示しうるという事実が、所有概念がフィクションである証拠だ)

では、空間的な束縛を受けないフィクションにすぎぬ「所有」をどうすれば保障しうるか?動物の縄張りならそこを所有(?)する個体が敵を実際に追い払えばよいが、ヒトの場合は?

そこで、国家が生まれたのではないか?国家の第一義は所有権の保障だ、と。
こう考えると、ネオリベ系の人々が社会保障を嫌う理由がよく分かる。(それに必ずしも賛成するわけではないが)
以前も書いたが、社会保障と窃盗は外形的に見分けがつかないのだ。

何だかこういう考え方をするのが面白い。まあ、色んな本やサイトを読んで得られたぼんやりとした考え方を自分なりにまとめたに過ぎないが。

もひとつ言うと、所有というフィクション体系のズレが、戦争やトラブルの原因であると言えそうだ。

例えば、フィクションを持たない知性体は、使用貸借と贈与の区別を理解しうるだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?