うらやましいという感情について

僕は色んなものを羨む。学歴のある人、スポーツのできる人、恋人のいる人、結婚している人。
誰もが「羨ましい」感情を抱くが、そこには少なくとも二重の意味があるのだ。

例えば「結婚している人が羨ましい」というとき、相手が「結婚していることそのものが羨ましい」のか、「結婚によって一定の立場、世間体が与えられ、安定した居場所、社会的なポジションを得られること」が羨ましいのか。(好奇の視線にさらされない権利、バカにされない権利とでも言おうか)
前者を「それ自体への嫉妬」後者を「市民権への嫉妬」とでも言おうか。

そして結婚をしている側(ひとくくりにしてしまう言葉だが便宜的に「マジョリティ」と呼ぼう)は往々にして「市民権への嫉妬」を「それ自体への嫉妬」にすり替え、「そんなこと言って本当は羨ましいんでしょ?」「素直に結婚すればいいのに」なんて言ってくるのだ。

「市民権への嫉妬」と「それ自体への嫉妬」は違う。そこを同一視して社会問題を議論するべきではない。マジョリティの側は「市民権への嫉妬」を勝手に「それ自体への嫉妬」にすり替えてはならない。

そしてマイノリティもそこを混同しないようにするべきだ。
自分は市民権が欲しいのか、それ自体が欲しいのか。
そこを間違えると、自分を余計に苦しめることになってしまうと思う。(かつての僕は混同によって相当こじらせた)

もちろんそれ自体が欲しいのなら、嫉妬が「それ自体への嫉妬」なら素直にそれを求めて努力をすればよい。

だがそうではないのなら、それが「市民権への嫉妬」なら。
堂々と主張すればよい。
「私は市民権が欲しいのであって、結婚そのものが羨ましいのではない」

当たり前のことだが、結婚する人間が悪いなどと言いたいのではない。
だがもしマジョリティが勝手に「マイノリティは自分たちに嫉妬しているだけだ」と解釈するなら、それは暴力なのだ。
「市民権をくれ」という主張と「それをくれ」という主張は異なる。

だがマイノリティの言葉は歪められて伝わる。

「市民権をくれ」と言っているのに、「これが欲しいなら努力しろよ」「努力もせずに認められようとして」「傲慢だ」と言われてしまうのだ。

「欲しいのではない、認められたいのだ」
この論理がなかなか伝わらない。

「認められたいなら努力せよ」

この論理は限りあるものを手に入れたいという状況においては正しいかもしれない。僕は何かを勝ち取るための競争を必ずしも否定する気はない。
だが「市民権」についてはそうではない。

何かを得る権利、つまり「それ自体への嫉妬」は本人の努力によって解消されるべきかもしれないが、「市民権への嫉妬」は言論や制度改革によってなされるべきだ。それは万人に与えられるべきものだからである。

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