野田秀樹さんの歩み~幼少期の記憶

天才にして孤独の詩人・石川啄木の小説に『雲は天才である』がある。
我優れたりと傲慢ともとれるような自負心の高い人たちに囲まれて、石川啄木は雲と語り合う時間にこそ、自然のなかに身をおく時間にこそ,
価値を見出していたのかもしれないと思う一書である。

しかし野田秀樹さんのこれまでの歩みをみると、彼はそうではない。

人のなかで生き、自ら抱える孤独や不安をも、言葉や芸術に昇華し、人と人の繋がりの場所を彼の人生の舞台として生きてきたように思える。
人のなかで葛藤し、もがき、光をみつけてきた人生。

仕事を生活の主軸とし、ほとんどエンタメに触れてこなかった私の洞察はかなり浅いので、書く事に申し訳なさを感じながらも、野田秀樹さんの舞台を鑑賞できるチャンスに恵まれるとしたら、その貴重な一秒一秒をより深く味わいたいと思い勉強することとした。

まずここでは、彼のこれまでの人生行路を何回かに分けて紹介していきたい。ちなみに私は野田秀樹さんのことをネットではまだ一切調べていない。
真剣勝負で彼のことを知ろうと研究し一冊の本として上梓した人間の、骨太の文章から、彼を知りたいのである。

第一回目は、誕生から幼少期を。小学校時代まで含めたかったが、いや本当は大学時代までと思っていたが、「夢の遊眠社」設立まで入ると長文になりすぎるため、次回としたい。
そしてやはり、人間にとって誕生し育ってきた人の基盤ともなるこの時期は、とても大切だと思うので、ここを掘り下げてみたいと思う。

<誕生~長崎での4年間>
1955年12月21日、長崎県生まれ。日本が敗戦から復興し、先進諸国の仲間入りを果たす時代に生を受ける。翌1956年には「もはや戦後は終わった」という経済白書の報告が出され、戦争の混乱期にひとまず終止符が打たれた。

彼の生まれた場所は、今も静かに輝く海面を見渡せる、雄大な風景を抱く田舎の島・長崎県西海市崎戸町蠣浦(かきのうら)郷。
佐世保港から、この島のある五島列島、江戸時代は捕鯨の島、近代は黒いダイヤといわれた石炭で栄えた島だった。

この蠣浦郷の近代史としては、20世紀はじめに九州炭鉱汽船がここで採掘を始め、やがて三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の操業となり、戦中戦後と日本のエネルギー産業をささえる重要な炭鉱であった。

今でこそエネルギーといえば石油であるが、戦後日本の復興を牽引したのは石炭産業であり、1950年代前半はもっとも活況を呈した時代にあって、崎戸町の人口も2万5千と大きな町であった。
日本の西の端にある離島に、こつぜんと都会が姿を現したような場所で、彼が生まれた炭鉱住宅の長屋はあった。

彼の住む場所は近隣の農漁村よりも早く家庭の電化が進み、電気製品の普及が進んでおり、街灯も夜通しついている、まさに長崎の島に出現した都会。

野田家にはデモ商品のテレビがあり、毎晩のように近隣の人たちが見に訪れた。野田秀樹の母恵美子さんはお茶やお菓子で来客をもてなし、毎晩そういった接待で忙しかったようである。

一歳の時、新築のアパートに引っ越し、そこはトイレも水洗で、日本人が憧れた近代的な暮らしの先端に暮らしていた。彼はまさに戦後復興とともに生まれ、高度成長と足並みそろえて育ったということがここからも分かる。

しかし1960年、安保で時代が騒がしい時に、野田家は東京に引っ越す。
それは石炭から石油へエネルギー政策が転換したことにより、父親の仕事場が変わったことによる。1964年、東京オリンピックの年には長崎のこの全山、閉山となっている。時代の趨勢ということか。

4歳で島を離れた野田秀樹さんにとって、この島・崎戸の記憶はうすく、思い出せることはほとんどないという。しかし彼は30歳の時にここを訪れて、こう述懐している。

「30歳の頃崎戸を訪ねたら、炭鉱の跡はまさに廃墟でした。下から見上げると、さびれた町にカラカラと草が風に吹かれて通り去っていく、そんな西部劇のゴーストタウンのような感じがしたものです。(中略)

自分たちの住居だったところには人がまだ住んでいた。島のてっぺんでしたから、海の絶景が見える。こんな景色を見ていたんだなあ。
『赤鬼』という芝居に崖の上から海を見る場面がありますが、あの絶景の記憶がどこかで影響しているのかもしれません」p56『野田秀樹』内田洋一著

彼がここを何故訪ねたのか。30歳の頃、つまり1980年代当時は、70年代までの政治とイデオロギーの時代をおおっていた沈鬱な重さをしりぞけ、奔放な言葉遊びで文化の表層を軽快に駆けるフロントライナーとして、時代の寵児であり、彼が率いる「夢の遊眠社」がブーム。
その熱気のただ中にあって、どうして彼は、故郷を確かめに行ったのか。

崎戸訪問から15年後にこんな文章を書いている。

「ものをつくる人間として、原風景がないことが、長い間コンプレックスだった。」

戦後の焼け野原を知る少し上の世代の人たちが、年若い彼らに自分たちがもつような焼け野原のような原風景がないことを幾度となく言われ、どことなくそこに自慢や威張りのようなものを感じ、決してそれは彼らが自身で努力して得たものではないのに、優位に立ったようにしている、それに対して彼はこう思うのだ。

「そりゃ、ちょいと悪うござんしたね、という気分に無理やりさせられながらも、悔しがっている自分もおり、それもあってわざわざ探しにでかけたのである。4歳で東京にでて、一度も帰ったことのない生まれた場所へ。

そこは、絶海の孤島のような景色で、生まれた家は、島の一番高いところにあって、外へでると、望洋たる冬の海が、眼下四方に広がる。なかなかどうして自慢できる風景であった。こんなにも美しくて、怖い風景を、4歳にあるまで毎日無意識に見ていたのだ。

ほらね、と言う気になった。なにが、ほらねなんだかわからないけど、原風景のない人間なんていないのだ。

しかも、それは、ひとつであったりもしない。人間が生きれば生きるほど、原風景は積み重なり、下へ下へと埋もれていった原風景は忘れ去られ、また時に、それがうねるように、溢れ出現したりする。」「NODA・MAP第8回公演『カノン』プログラム」より

原風景が積み重なる、なんとも深い言葉である。まっさらな心をもつ時期に何をみてきたか、その影響力の大きさと、一方で青春期からは自らどんな風景を求めて生きてきたのか。ずっと目にしてきたものが、自分たちの人生にどれほどの影響をもつのかを考えさせられる言葉である。

<故郷について~廃墟の与えたもの>
ここで改めて、彼と故郷との関係を考えたい。

彼の故郷は近代日本の縮図といってよい。
炭鉱産業のために開発された人工の町であり、時代の激動とともに姿を変えたマージナルな辺境地。廃墟となってしまった土地。

近代の終わりを原初の記憶に留めるために、生まれたともいえる彼は、
その廃墟の姿を、演劇でも表現している。
2009年舞台『ハイパー』の制作にあたり彼は「今回は廃墟が描きたかったんだ」と。
舞台は火星であるが、廃墟のなかでおそろしい孤独にたえ、残酷な罪をおかしながら生存していかなければならない存在を、劇世界で描いた。

彼は文明の滅びを象徴する廃墟というものに強いこだわりをもつ作家でもあり、荒涼とした大地に、いつも潜む廃墟。

野田秀樹さんの人生を追った内田洋一さんは著作でこう考察する。

「廃墟は、かつてそこで暮らした人間の営みを、終わるほかなかった歴史への想像力を、かきたてずにはおかない。廃墟は秘められた敗者の歴史の拠り代である。
野田秀樹は失われた時のありかを求め、あり得たかもしれない歴史をひもとく探検者である。廃墟となった故郷からの呼び声に、耳を澄ます者ででもあるかのように。
そのように記してみたら、私の心に波立つ何かが頭をもたげてきた。
赤鬼、鬼ヶ島。
代表作のひとつ『赤鬼』の原風景だったかもしれない、と野田秀樹が示唆した絶景は鬼ヶ島という酷薄なコトバをその底に響かせていた。

彼の生まれた崎戸炭鉱が鬼ヶ島という忌むべき名前で俗称されたのは、生産量が多い分、その労働が危険で過酷だったゆえだろう。」p59

まさか自分が幼き日にみた風景とその後の姿がこれほどまでに人生に影響を与えるとは。
彼の生まれた場所は、確かに「一に高島、二に端島(軍艦島)、三に崎戸の鬼ヶ島」とその過酷な現場を指折る戯れ歌のようなコトバが残っているのである。それほどに厳しい場所であり、そしてまた、時代の流れで、廃墟となってしまった。幼き日にみた風景と、30歳に目にした故郷の風景。彼の心にどんな感情が生まれたのだろうか。

彼の代表作といわれる『赤鬼』。
英国やタイで上演されたこの作品は離島の漁村に漂流した異邦人をめぐる物語。異邦人は人を食う鬼として怖れられるが、皮肉な運命によって逆に人に食べられてしまう。

「社会の異分子を鬼に見立て、排除する人間の原罪とでも言うべきものが『赤鬼』の主題である。それは野田秀樹の生み出すドラマの核心でもある。

この劇作家にとって「人を食う」ことは文字どおり「食う」だけのことを指しているわけではない。もっと広がりをもった比喩であり、人が人を差別し、搾取したり殺したりする行為をも暗示している。

人はちょっとした、ことの成りゆきで鬼に見立てられ、怖れられ、ついには人に食われてしまう。野田のドラマにあっては、この残酷な原罪を直視することでしか、人間の生きる希望は見えてこない。野田秀樹は「鬼」を描いてきた劇作家なのだ。

その人が鬼ヶ島と呼ばれる離島に生まれたのは、もちろんただの偶然だ。
崎戸の負の歴史を象徴する鬼の物語を書いた分けてもない。が、
この符号はなにか偶然以上の意味を私に感じさせるのだ。

なぜなら、偶然が偶然を呼ぶのが野田秀樹の演劇だからである」p
60『野田秀樹』内田洋一著

また別の書籍では『赤鬼』についてこうある。

「(ペテン師のような漁夫、あとから村にきたよそ者の兄妹)こうした社会の境界線にいる人間たちが、あきらかに外部に属する赤鬼と出会ったときに、どんな反応を示すかが、この劇の核心にある。
彼らは、じぶんたちを守るためには、村人たちとの尖兵となって赤鬼を排斥しなければならない。もし、同情や共感を示せば、次に標的になるもはじぶんたちだと知りすぎるほど知っているからだ。
だからこそ彼らは、沖にいる外国船に向けて脱出行を迫られることになる。
その結末は、先に死んだ赤鬼を食べることで、とんび、水銀、あの女が生き延び、彼らはまた元の浜へもどってくる。
(中略)

これは人肉食という題材を借りながら、異物との接触、理解、融合を語った物語といえるだろう。
私たちは、異物とされる他者に対して接触さえも恐れてきた。理解さえも怠ってきた。
融合を企てるには、どんな道筋があるのだろうと、野田は私たちに真顔で突き付けてきたように思う。」p41『野田秀樹の演劇』長谷部浩著2014年

他者を異物として危険視し排除するだけでは成り立たなくなってきた私たちに問いかける、高度な作品を出現させる野田秀樹さんのさまざまな背景を知って、さらにその作品への愛情と共感が増すように思う。

<東京へ~幼稚園での日々が与えたもの>
2009年3月、神楽坂の日本出版クラブで開かれた岸田國士戯曲賞の授賞式。野田秀樹さんは27歳でその賞を受賞してから26年間選考委員として次代の劇作家を選ぶ人となっており、その終了後のパーティにて、内田洋一氏はこう問いかける。

「野田さんはエリート高から東大に進み、恵まれたコースを歩んだ人なのに、差別された人や虐げられた人ばかり描きますね」

「ウーン、やっぱり長崎の田舎で生まれたからじゃないかな」p62

時を1960年春に戻そう。
4歳の時、父親の仕事の都合で上京し、明治神宮に近い代々木の社宅に引っ越した。
父親の仕事の都合の内容としては、長崎の炭鉱ではホワイトカラーの職種で、若い父親は血気盛んで上司ともめたため、東京に行かされたとのこと。
父親は酒癖の悪いひとで、おそらくお酒を飲んだ時に上司ともめたのではと振り返っている。(p4『劇空間を生きる』野田秀樹・鎌田浩毅著)

マリアの園という名のミッション系の幼稚園に入ったが、東京の空気になじめず疎外感を味わったというのである。

幼稚園の床が木でできていて、遊んでいたら足の裏がくすふったくなった彼はこう言う。
「こちょまか」
長崎の言葉で、くすぐったいという意味である。周りの子が皆、彼をじろりと見た。
(あっ、オレはよそ者なんだ。)
そのとき感じた、自分が周囲とずれているという孤立感を忘れたことがなく、そのよそ者意識をずっと保ちつづけているのだ。

ここで彼のかわいらしい一面も知れた。それは入園をとてつもなく嫌がっていたことである。
そこに至るまでの野田さん自身が『怪盗乱魔』の巻末にある、自身の経歴を書いた『たかが人生』とう一文から、一部引用したい。

「1957年
一歳。人間としての体裁を帯びてくる。四ツ足をやめて二本足となる。
九州男児としては、ことのほか、その色白の度が過ぎており、この白さは人間ではない、鳥だ、白人だ、いやジェット機だ、いや悪魔の子だと噂が立ち、えらく肩身の狭い思いをした。そのわりには、現在、肩幅は広い。

1958年
二歳。人格の寸法がはっきりしてくる。タテヨコ2センチ5ミリ。拡大してみるとーーー人見知りだが、社交性だけはあり、
気の利くわりに、すぐぼけっとする。
神経質に見えても、ちゃらんぽらん。
根は不真面目だが、その実ひたむき、
心優しくて、底意地まで悪い、
臆病でなおかつ、大胆不敵、
あきっぽいくせに、どこか粘り強い。
ーーー考えれば考えるほど分裂気質。
人間、性格なんてわかんねえもんだ。

1960年
上京。幼稚園に入るのが嫌で嫌で、泣き叫んでは、机、電柱、母親、園長先生など、そばにあるものを、足当たり次第、蹴とばす。
強い大人の力に負けて入園。
今でも、幼稚園が好きで幼稚園に行っている、という迷信を信じてはいない。
しかし正確は急激には歪まず、この後、大きなカーブを描いて歪むこととなる。
とすれば、歪み始めた曲がり角は、なかよしこよしの幼稚園へ行く途中の曲がり角だった気がする。」

この文の他の箇所で、野田さんは、自ら仕組んだことがある。
それは、自分は坂口安吾の生まれ変わりだと書いているのである。大学時代に坂口安吾の作品に傾倒したことからくるようだが、坂口安吾のことが勉強できていないため、これは次回の考察としたい。彼がなぜ、坂口安吾の世界に惹かれたのか。

幼稚園に入ったことで、彼はある習慣がつくようにもなる。
「よそ者意識の塊だった幼児期の野田はよく祈った。幼稚園がミッション系だからお祈りは身近だったが、それがいつしか習い性になってしまった。

悪いことをしたり、はしゃぎすぎたりすると、夜、一人で反省し、マリアさまに懺悔する。その神はキリスト教の峻厳なそれ、というより、なにか大いなる存在、慈悲深い母性というほどのものだったかもしれないが、自省癖は小学校に入ってもつづく。

私(内田洋一氏)の思い入れを書きつらねれば、野田秀樹の演劇は激しい乱痴気騒ぎと懺悔の祈りとの往復運動とも見える。」
p67『野田秀樹』内田洋一著

後年、ロンドンに学ぶ彼に最終目標は?とインタビューされた野田さんはこう答えている。

「ものを作るとき、最初から目標をもってやる人もいるでしょうが、オレはどちらかというと行き当たりばったり。野心がないわけではないし、賞をもらえればうれしい。
ですが、オレの場合、そんなことを言ってもたいしてものじゃないしね、という感覚から芝居づくりが始まっている。
なんていうか仏教的なんじゃないですか。
オレの信仰心というのは、幼稚園のころにさかのぼります。
母親がキリスト教の幼稚園に入れてしまったんですよ。
うちはキリスト教とは関係なかったのですが、悪いことをしたら眠る前にお祈りをしなくてはいけないと信じちゃったんですね。そういう習性が小学校六年生くらいまでつづいた。基盤はキリスト教なんだけど、自分でいったい何を信じていたのかわからない。

自分を観ている者があって、悪いことをしてしまったら懺悔しなくてはいけに、そういうことを本気で信じていたんです。すごく悪いことをしてしまったとき、神様を使って赦しをこうていた。」p40『野田秀樹』内田洋一著

彼がこんな幼少期からの自分をここまで客観視して、分析していることに改めて驚くとともに、幼児期の経験がここからどのようになって今に至るのかがますます気になる。

この信仰心については、小学校、中学時代からの考察の回でまたみていきたいが、つまりは、中学になって勉強ができる自分になっていくなかで、このような今までのストイックな自分を否定していくことになる。

そして、いろんなタブーな言葉を使った芝居を作るなかで、両極端になった自分を感じて、そんな彼を救ったのが演劇の世界だったのである。

<最後に>
彼の言葉、こののちの人生のことも少し読み進めながら、頭脳明晰、闊達、そして感性の鋭さにただ驚いている。
普通の人間なら記憶も曖昧なはずの幼少期ですら、ここまでの記憶と振り返っての自身への影響を語るチカラ。

しかし、感性の鋭さは、神経を研ぎ澄ます必要があり、そこを突き詰めるということは心身をかなり消耗させ、自身を疲弊させることでもあるのだ。
そして彼の人生もまた、仲間の死やさまざまな苦悩の連続で、読んでいて心が痛む。

その心労・苦労をはねのける様な、高速で俊敏な演技、身体の動き、言葉の渦、、彼の演劇への情熱は並大抵ではなく、つくってきた作品群をみながら、私はミケランジェロのことを思い出していた。
90年の人生を仕事に捧げたミケランジェロの人生を描いたロマン・ロランの書物を手にして読みふける。
その書『ミケランジェロの生涯』(岩波文庫)の本の表の言葉にこうあった。
「ロランは、この「弱き人間」が芸術創作において最も力強い「真の人間」になることを、深い畏敬の念をもって伝える。」

私自身は、全く野田秀樹さんのことを今回の舞台発表まで知らなかったが、今まだ少ししか書物も読めてないながらも、一番は野田さんの面白さにも惹かれているが、何よりもその才能へ敬意をもっている。
ロランと同じような気持ちで
これからの小学校~現在あたりまでを、月に一回のこのnoteで研究していきたいと思う。

最後に野田秀樹さんのこの言葉で終わりたい。

「演じることは、無限に近づくことだ」p400『定本・野田秀樹と夢の遊眠社』

(余談)
推しである松本潤くんが、あの大変な渦中で大河をやり抜き、休息期間に入って、私は心底安心していたこの数カ月。睡眠時間が3時間なんて、倒れてしまう!!とずっと心配で、悪夢みてるのも心配で、
「とにかく、嵐のみんなは元気で幸せであってくれたらいいから!」というのが第一で、他は何もなくてもいいくらいのファンなので、
このnoteも、次は松本潤くんの好きなモンブランの成り立ちとか、そういうのを書いていこうかな、とのんきに思って自分も休息タイムにいたところ

まさかの!!舞台!!しかも長期!!しかもドストエフスキーを基にした作品!!演劇界の天才・野田秀樹さん??(エンタメ界に疎い私。。)

気付くと書棚からドストエフスキー関連を引っ張り出し、これはなんとしても舞台応援のポストしていかねばという謎の使命感(笑)なにせ推しのすることは盛り上げたい性分(オタクの特徴)

確かに野田秀樹さん最初の発表の手書きのコメントに、注意書きがあり、それを表面的に読めば「勉強無用」ともとれる。いや、まっさらで観たらそれがベストで最善なのかもしれない。

しかし、私はこの作品をきっかけに「勉強したい!!」という、若い頃の(今も若いつもり)あの情熱が再燃したというわけである。なぜなら、大好きな世界文学だから。
ドストエフスキーのことは、千秋楽まで、毎日ポストで学びをあげていきながら、しばらくは野田秀樹さんのことを勉強していくことにしています。

なぜなら私にはもっとドストエフスキーを研究している兄がおり、兄がどうしてもこのnoteで自分の考察を書きたい!と言い出したからで。。

なので、おそらく3回くらい、兄がドストエフスキーやカラマーゾフの兄弟のことをここで書くことになることを予告しておきます。。すみません。。

彼はIQは東大生以上らしく(自称)、でも理系大学卒なので、はてさて、どんなことを書くのかわからないですが、すごく読書してる人なので、こんな長文駄文ではないと思います。
今回のnoteも、本当に時間がなくて、ほぼ内田洋一氏の著作の要約となりましたこと、申し訳ございません。。いろいろ読んだのですが、内田洋一氏の書籍が最高でした。

松本潤くんが生き生きした表情で、嬉しそうで本当によかった。。
けれど仕事って、どんな仕事でも大変だから、きっと戦いになると思うので、その戦いを、日本の小さな片隅で同じように戦っているファンがいるというのもまた応援の形なのかもと勝手に思い、千秋楽まで勉強します!
これ本当に推し活なのか?はさておき(笑)

仕事も介護もあるなか、友達の色々も手伝いたいし、子ども食堂の手伝いもあるし、どこにそんな時間あるねーん!!しかし!!

ただ願うことはただひとつ!!
「舞台が無事故で、大成功でありますように」
それが叶えば、万事よし!!
今日もお疲れさまでした!

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