舞台美術とは(上)~伊藤憙朔氏・堀尾幸男氏の言葉を中心に

シェークスピアは謳った。
「この世はすべて舞台なり、男も女も、みな役者」
と。どの人の人生もまるで劇のよう。人間は、様々な心模様を広げながら日々を暮らしている。

人の心が描く無数のドラマ、この世の不思議を凝縮した演劇の世界には、その世界観を支える「舞台美術」が存在する。

地球上にこんな世界が創作され、存在していたんだ。。まだまだ私は世界が残している至宝に触れていない、もっと知りたい!でないともったいない!
舞台美術家・堀尾幸男さんの作品をみて、最初に心に湧きあがった感情である。

舞台美術という言葉を目にしたのは、今公演されている「正三角関係」にて、「堀尾幸男 舞台美術の記憶ー早ー」という図録が東京芸術劇場内の展覧会にて発売されているというインスタを見て、
「舞台美術」という言葉が初見で、一体どんなものなのだろう?と思ったことがきっかけで、勉強してみることに。

その展覧会の説明にはこのような記述がある。
「堀尾幸男 舞台美術の記憶」展
(2023年PARCO劇場&2024年東京芸術劇場)での展示作品を掲載した作品集です。全52作品の舞台美術模型や図面、デザイン画といったプラン設計時の資料を、堀尾本人の語るエピソードと共に掲載しております。」

そして、展覧会の終了時には
「舞台美術は面白いものだった」と思っていただけたでしょうか?と感謝とともに、その魅力を語られているインスタがあがってた。
「想いを込めて準備中…」とその展覧会にかけるスタッフの皆さんの情熱と、実際の展示の一部をそのインスタから拝見していて、こんな世界があったなんて、自分の視野がブワっと広がる感覚を覚えた。

壮大かつ緻密にして、凡人では想像し難い、超越したイマジネーションが溢れかえる世界。

そして堀尾幸男さんがこの展覧会に寄せた、手書きの文面にはこう記述(野田秀樹さんも手書きでしたね)。

「舞台美術って何だと、問いつつ四十六年間を過ごしてしまいました。
なんだか、時間と思いだけが積みあがってるのです。
そこでこの記憶展Ⅱとなるわけです。
七百五十(750)作品すべてを、いつかみかえしたいのですが、今日は四十五作品の展示です。
これからガクガク、ワイワイの声が聞こえてきます。(騒がしい演劇時間だった。)を観て下さい。
そして、とりあえず(舞台美術はおもしろいものだった)と言っておきませふ。そしてⅢはいつの日か。2024.0703」

そしてその横にエンピツで書き足してある言葉が素敵である。

「観に来てくれてありがとう。」

~horio.exhibition東京芸術劇場公式インスタ・7月16日掲載より引用

野田秀樹さんにしても、この世代の方が敢えての手書きにされてる意味は甚深。パソコンの文字では得られない、書き手のぬくもり、真剣さが視覚からダイレクトに伝わってくる。
手書きの文字が滲ませている、書き手の心根。手書きの文字もまた、その人の作品ともいえるだろう。文字がもつ味わい。(感情を入れてはいけない公式文章はだからパソコンなのであろう)

さっそく図書館に行き、「堀尾幸男」さんと検索するも、見当たらず、ならば舞台美術関連の書籍にあるのではと、図書館司書の方にかたっぱしから書架から出していただいて、ドンと高く積み上げて黙々と探すこと数時間。

すると、ある人物の書籍に寄稿されている堀尾幸男さんの言葉を発見。

『伊藤憙朔~舞台美術の巨人』俳優座劇場編・NHK出版・2014年発刊

この書籍は、舞台美術家の伊藤憙朔さん(1899年8月1日~1967年3月31日)
が創設された俳優座劇場が60周年を迎え、その記念に刊行されたもので、その書籍の最初のページに、お子様である弘子さんからの言葉が添えられている(一部引用)

「早いもので、お別れしてからもう四十七年が経ちます。
貴方が切り開いてこられた、舞台美術、映画美術、テレビ美術は、その後の新しい後輩の皆さんが頑張って新しい時代を築き上げていらっしゃいます。」
舞台美術を形づくった最初の人であることがわかり、そして次のページの序章に
「伊藤憙朔から受け継ぐもの そして未来へ…../芸術家系の源流」
堀尾幸男(舞台芸術家・日本舞台美術家協会理事長)との寄稿が載っていたのである。

堀尾さんは、p5~p16の文のなかで、伊藤憙朔さんの人生と舞台美術家としての歩みを丁寧にまとめておられ、敬愛あふれる言葉を寄せられている。

現在78歳の堀尾さんが、展覧会での言葉に「舞台美術とは?」を問い続けているとのこと、その舞台美術を今の形にしていく基盤を作った人物こそが、この伊藤憙朔さんであることが、堀尾さんがこの本の中で書かれた伊藤さんの人生からわかったことである。こうある。p6

「舞台装置家伊藤憙朔から我国の演劇美術理論が始まった。これなくして現在の繁栄はなかったであろう。
教壇では必ずこの人の名前が出る。この人の理論、この人の環境、この人の道を辿るだけで、演劇舞台美術を目指す人々は、技術も目的も姿勢すらもイメージをつかむことが出来る。
早い話「舞台美術家とは=伊藤憙朔」だと言っても過言ではない。」

舞台美術に於いて、最大の功労者であることがわかる。そして堀尾さんの師である、故・金森肇さんが伊藤さんの別れにあたり贈った惜別の言葉にこうある。

「我々に課せられた命題は巨人を越えるのではなく、その大きな器から降りること。師は舞台装置という大事業を完成させた。
我々は次の第二段階を発見すべきである。それが師が我々に課した命題だ」

まだまだ未知の領域へ向かって邁進して行かねばと、伊藤さん自身もその師の言葉を受け止め決意されている箇所が印象的である。
まだ未知、そう、この伊藤憙朔さんの職業名が変移していったことからも、この分野が未統合にあり、変移し続けてきたことが分かる。

①舞台装置家②セットデザイナー③ステージ(舞台)デザイナー
そして④舞台美術家、という名称へ。
世界では⑤セノグラファーと呼称されているようで、この変移の理由は

「演劇が「時代の産物」として扱うものだから、時代と共にということで当然かもしれない。しかし、名前が変わっても、その基本理念は変わらない。」と、伊藤さんは解説しているが、その基本理念とは?

そこは伊藤憙朔さんの書物などから、「舞台美術とは(下)」と題して、来月のnoteにて後述・考察することとして、

伊藤憙朔さんが1958年(伊藤さんが59歳の時。終戦が1945年、堀尾幸男さんが1946年、蜷川幸雄さんが1935年、野田秀樹さんが1955年生まれ。戦中に生まれた伊藤さんが、どのようにしてこの道までたどり着いたのか、やはり後で簡潔に追いたい)にある協会を設立したのだ。

昭和33年の、日本が高度経済成長で経済面をばく進していた頃に、文化面である
「日本舞台美術協会」を設立し、その初代理事長に就いているのだ。
そしてその創立の目的は、
近代演劇界に装置家が必要とされてくる混沌の時代、舞台の大道具方、小道具方、その全てを守り育てる決意をし、舞台の技術、そして美術を整えることであった。

演劇の一翼を担うことが舞台装置家(今でいう舞台美術家)の役割だとし、
タブロー画(作家)たちとの区別を明確にしたのである。
それは舞台装置に関わる人たちの権利や地位を守るためということも大きな目的であった。

そして日本初の舞台装置の指導書を想起。学問として舞台美術論が生まれたのである。点在し、存在していた各部署をよりまとまって発展していけるように、かつ、経済的にも、世間の認知的にも安定し守られるようにした、伊藤憙朔さん。すごい人物である。

そしてその伊藤さんの舞台美術論は代々、この「日本美術家教会」にバトンタッチされ、11代目が今回の野田秀樹さんの舞台の舞台美術を努められた堀尾幸男さんなのである。

堀尾さんはこう書いている。
「我々は今も未来も彼の論(ことば)を使って演劇創造する。」

堀尾さんの人生を詳しく知る書物には出会えなかったが、この寄稿のなかで、彼の舞台美術を目指すきっかけが少し書かれているので紹介したい。

堀尾さんは、広島生まれで、豆腐屋の家庭に育つ。

「元来芝居好きの私は、高校三年生の時、広島市公会堂で劇団民藝の「秦山木の木の下で」を観て、瀬戸内海の話だったこともあり感動。
高校三年生の私にもその美術が出来るとサッカクした。

武蔵美(武蔵野美術大学)に入ってすぐ、できたての国立大劇場で劇団俳優座の離れ屋敷と竹庭の美しい美しいリアリズム舞台「千鳥」を観た。
こうした彼(伊藤喜作)の世界観溢れる装置に感銘を受けたということを思い出した。
当時はそんなこともすぐに忘れ、自然の流れでこの仕事に就いたが、今思えばこれも一因になっていたと思う。」

と、伊藤憙朔さんとの最初の接点について述べながら、自分自身には伊藤さんほどの芸術のDNAはない、と書いている。

伊藤憙朔さんとその一族は、当時の新聞にも名物芸術一家として記事が度々載るほどの有名な一家だったのだ。

戦前の、まだ何のカタチにもなっていなかった日本の舞台美術が創られてきた時代背景も知ることができるので、
伊藤憙朔さん家族の芸術家っぷりを、箇条書きにまとめて紹介したい(あまりにもすごいのですが、なるべく簡潔にまとめました)

特に、この系譜を追うことで、日本の舞台美術が生まれた背景には、アメリカなど外国で、実地で、演劇関連を経験してきた人たちがいたからこそ、さらに進化を深めることができることが知れます。


父・為吉・・三重県生まれ。父の事業を手伝うも、事業に失敗し18歳で上京。同郷の尾崎行雄宅に身を寄せ、機械学、英語、漢学を学び、幸田露伴たちと知り合う。サンフランシスコに渡米し、建築学・物理学を学びながら建築事務所等で働き、米国事業の研究「日本人事業会」を設立。帰国後、日本初のドライクリーニングや米国式染物などの事業を起こし、また彼が作った洋風家具が評判となり、のち伊藤建築事務所を起業。
70近い特許内容は、耐震耐火建築、コンクリートブロック式耐震構造、万年塀など。職工徒弟の教育、地位向上にも貢献している。

母・喜美栄・・父は浜松藩で、オランダ語に堪能。兄も動物学の教科書「日本動物学提要」を著した東京帝国大学物理学博士。自身も一橋高等女学校にで津田梅子さんにスクエアーダンスや唱歌の指導を受けるなど、新しい文化への探究心に溢れていた。

この、進士の気性に富んだ父母をもち、
九人の兄弟姉妹は、ほとんどが演劇芸術に関わっているのである。
特に
次男・伊藤道郎は、帝国劇場演劇部に入り、1912年「とりで社」の創立に参加。ドイツ留学で舞踏へ転身、その才が外国で絶賛され、彼のための詩劇も作られ、道郎振付、出演は絶賛。その後ニューヨークを中心に多数のダンススタジオを開き、アメリカモダンダンス界の先駆者の一人と評される。
ハリウッドでも数々の映画やオペラ、芝居等の演出・振付・舞台美術を手掛け、アメリカの宝と言われた。
第二次世界大戦ではロスの収容所に。1943年日本に帰国。アニー・パイル劇場(GHQ支配下での東京宝塚劇場の呼び名)の芸術顧問・総監督を委嘱され、またのちの俳優座の基となる練習場なども作った。

四男・祐司もまた、演劇の道から渡米し、舞台衣装・かつらなど長くブロードウェイで重宝され、映画の衣装の制作、デザイナーとして活躍。美術監督としても活躍し、ハリウッド映画製作に欠かせぬ存在と言われた。

そしてここからは、このnoteの主人公でもある、五男の伊藤憙朔の人生を振り返り、そこから現代の舞台美術の源流を求める一つとしたい。

子どもの頃から、建築図面や建築模型、野外のパノラマを真似して作って遊び、13歳の時、次男・道郎の「とりで社」の第一回試演の小道具である燭台を作り、舞台美術と運命的な出会いをするのである。
青山学院中等科から絵の勉強に専心。1919年東京美術学校西洋画科入学。
その頃には土方模型舞台研究所に参加、舞台美術助手をしていたが、当時は、
舞台装置は、座頭の考えを職人(大道具師)が作るならわしで、その慣習から舞台装置への開拓がはじまる。
関東大震災、兵役を経て、1925年1月築地小劇場「ジュリアス・シーザー」が、舞台装置家としてのメジャーデビューとなる。
後、父親と渡米し、そこで舞台美術研究家として奔走するも、仕事がなく、一年後には出国を命じられるが、
ただでは帰らぬと暇つぶしに描き歩いた90点のスケッチが、その後の舞台美術をより深め高めることとなる。
兄・道郎のアメリカでの美術・衣装の担当をしたり、道郎のデザインなど感化を受ける。
のち、憙朔は新劇、歌舞伎、新国劇、新派、商業演劇、オペラ、ミュージカル、日本舞踊、バレエ、ダンス、人形芝居・・と、あらゆるジャンルを果てしない数、デザインする。
演出家が、作家に舞台の感想を聞くと、「舞台装置は結構でした」とその舞台装置(舞台美術)のみを褒められたエピソードがあるほど、その美術能力が卓越していた。

典型的江戸前で口の悪い大道具師長谷川次郎は、陰で「これからは憙朔の一人舞台になるぞ」と言ったりと、あまねくその力が知られることとなる。

堀尾幸男さんはこう書いている。
「脚本の理解に長け、さらには作劇法というものを、劇作家より真に理解している超越した舞台美術家であった。」
『伊藤憙朔~舞台美術の巨人』p11

1935年からは映画の美術監督として世界的に評価された名作にも多く名を残し、また移動演劇の事務局長にもなり発展に寄与。

執筆として『舞台装置の研究』で、舞台装置の概念、歴史、種類、装置デザインのテクニックから大道具の製作方法、用語解説に至る舞台美術のバイブルを残す。
最晩年には『舞台美術』を書き残している。

また、伊藤憙朔舞台美術研究所を創設し、舞台、映画、テレビ、各方面に人材を輩出。
1958年には舞台美術デザイナーと、舞台製作技術家(大道具、小道具、かつら、衣装など)の二つの部門を集めて
「日本舞台美術家協会」を結成し、その会長を務める。
その活動は、舞台美術の海外交流および交歓、会員の生活擁護、新人育成などの事業を行い、後進の育成を目的として創設。
現在のこの協会は、舞台とテレビに分かれ、それぞれに伊藤憙朔賞が創設されている。

劇団俳優座にも協力。新劇活動の拠点となる劇場建設を決定し、大奔走。
1954年に俳優座劇場が完成。

その劇場開場に先立ち、劇場附属の舞台製作場を開設。
「この新しい劇場に今までずっと夢に描いていた、装置家と製作者が情熱を分かち合い一体となって製作する、生きた舞台美術を飾りたいと考えた。」p13『伊藤憙朔~舞台美術の巨人』

こうして夢の大道具製作が着実に実現されていた1967年、舞台稽古最中に体調を崩し、肺がんにてこの世を去る。
亡くなる寸前まで、現帝国劇場開場記念の劇の装置を描き続けていた。

「まさに日本の舞台美術を今日の芸術にまで高め、舞台美術家という職業、地位と確立した先駆者であった」p14

ご子息、令嬢も、芸術や建築、作曲家、演奏家として活躍された。

伊藤憙朔の父はこう語っている。
「私は発明の精神を高調し創造の中に人生があるという事を自分の経験に即して痛感する。(中略)
それぞれの特徴を発揮して自分の世界を創造し、自分の運命を開拓して行く所に人生がある」

伊藤憙朔の人生をたどるだけで、ここまでの長さになってしまったが、
第二次世界大戦を経て、戦後から現在に至るまで、演劇がどうあったのか、それを支える人たちがどのように今の舞台美術家となっていったのか、
先人たちが、演劇や芸術にかけたその人生の歩みを知っておくことは、より深い感動を生むのではないだろうか。

ここに至るまでの、先人の労苦を知れば、目にするものへの感動と感謝が増し、
そして自ずと自分が今、為している仕事やさまざまなことも無益ではないこともわかっていくように思う。

「道を歩くとき、その道を作った人に心を寄せよ」との詩を読んだことがある。うっそうとした森や野原から、コツコツと誰かが時間と労力をかけたからこそ、できたその道。そして確かな道となるように足を運び、歩んだ先人がいたからこそ、今、確かに自分たちも目的地へ向かって歩みを運べていること、当たり前ではない。

観劇は一瞬だ。きっとおそらく、躍動する俳優たちを追うのに必死で、支える装置、舞台美術を愛でる時間は、その観劇の間だけの、一瞬の背景となることもあろう。
けれど、舞台の一員である、芸術人たる舞台美術の存在は、確かにその演劇を飾っている。
人の心がこもった、大切なものだ。その演劇の世界観を大切に創造された共演者である。心が込められた存在である。

伊藤憙朔さんが、舞台美術を創るひとたちの地位向上、そして、彼らの暮らしが安定するように、さらに良い仕事ができるように、その道筋を、体系を整えたことは、「無から有」を生み出す労苦たるや、きっと大変なものだったろう。

本屋で調べた、最新の演劇についての書籍には、やはり舞台美術がいかに経費がかかり人件費も削れない分野で、しかしとても大事な仕事にも関わらず、国などからの文化への支援はのぞめないことを憂う記述がされていた。

そう思った時、伊藤憙朔が創作する人たちの生活基盤や発展のために奔走したことはとても大事なことであったことがわかる。文化の基盤を守ったのである。

日本の演劇界のために捧げた、伊藤憙朔の人生を知ることは、一つの映画を観終わったような感慨深いものがあり、思索を深くしている。

ここからは、短めにを心がけ、堀尾幸男さんも、舞台美術の第一人者としてあげられている伊藤憙朔の書物から、彼が目指した舞台美術のエッセンスの文章を探し、書き残しておきたい。

舞台美術(書籍では舞台装置と記載されていることが多いが、現代の表記に合わせて舞台美術で統一する)の具体的な名前などは、割愛させていただくが、彼の残したそれらすべての名前、用途などは、莫大な量であり、すべて詳細に記されており、ただただその情熱に敬服する想いでページを大切にめくりながら、みさせてもらった。新鮮でもあり、貴重な経験であった。

堀尾幸男さんが、展覧会で書かれた
「舞台美術とはなんだろう」と問い続けてきた人生、その答えの一分にもなりえるような言葉が、伊藤熹朔さんの書物になら出会えるような気がしている。

まず、この一文を紹介したい。

「舞台美術の仕事は単独に評価されるものではなく、演劇全体として、その中でいかにその本分を果たすかという点で評価されるものである。
ゆえに、劇作家の心を、俳優の心を自分の心としなければ、舞台美術の仕事はできない。
又その理解の深さによって舞台美術の進歩もあるわけである」
『伊藤熹朔』p28

ここで伊藤熹朔さんは、舞台美術家が造形美術的な興味のみにとらわれがちであることを問題とし、舞台美術家が演劇全体に対する研究が足りないことを危惧されている。

「演劇における造形美術的なものは一つの独立した創作分子と認める事は困難で、演劇という力学的な全体のるつぼの中で根本的に変貌した造形美術である。

それで舞台美術は演劇全体の研究を存分にやり、その真の姿をはっきりつかみ、脚本(演出)の目的をそのまま舞台の目的として、造形的な手腕で「演劇的」と呼ばれる総合的効果を作り出さなければならない。」
とし、
この仕事に関わる人達の見事な手腕があり、造形美術は面白さがあるがそこに引きずられることなく、演劇の目標に一致するよう研究していってほしいと述べている。

伊藤熹朔さんはそして、舞台美術とは?をこう述べている。
3点にまとめてみたい。

①演劇の要素は、「想像」に訴えるものと、「知覚」に訴えるものの2つから成る。「知覚」は聴覚と視覚の2つを指す。
舞台美術は視覚に訴える全ての部分を包括する。


②舞台上には視覚的形象があるが、「動的なもの」と「静的なもの」に分け、「静的なもの」に属するものを舞台美術とする。

〜演劇は時間的空間的延長を持った動きの芸術であり、リズムの芸術である。静止や沈黙がシーンとして存在するが、それは次なる流動や能弁への跳躍台を意味する。


③近代舞台美術は、「写実主義的舞台美術」と「反写実主義的舞台美術」がある。
「反写実主義〜」=象徴主義、形式主義、表現派、立体派、未来派、構成主義、新興物主義である。

この2つの間に存在するのが「単純化写実主義」

次に舞台美術の概念について、と、まだまだ書き続けたいのだが、また1万文字を超える状態なので、やはりここは(下)にまとめたいと思う。

またできたら、伊藤憙朔さんの理論が今現在どのように発展してるのかも、書籍を探していきたいと思う。(多角的な視点も必要なため)

哲学者ルソーは、『エミール』で人間の人生の情景のうつりかわりについて、こう書いている。

「それぞれの時期にはそれを動かすそれぞれの力がある。
しかし人間はいつでも同じなのだ。かれは十歳のときにはお菓子に、
二十歳のときには愛人に、三十歳のときには快楽に、四十歳のとっきには野心に、五十歳のときには利欲にひっぱり廻される。

人間がひたすら知恵をもとめるのはいつのことか。
知らずに知恵へ導かれていく者はしあわせなことよ。どんな案内者をつかってもかまわない。目的地に連れていってくれさえすればいいのではないか。」『エミール』(下)ルソー著・岩波文庫p168

舞台美術という世界を通してみる、人類の知恵。先哲の知恵。
何千年とかけて求めてきた、人類の知恵の恩恵をあびれる学びがありがたい。
伊藤憙朔さんが人生最後の瞬間まで舞台美術の為に生き抜いた姿は、長くはない人間の人生に深い思慮をもたらしてくれるのではないか。

「心」という多様な世界を形にする演劇、そしてその舞台美術に深い敬意を。


(余談)

今日、正三角関係の舞台の、東京公演の最終日が無事終わったとのポストを拝見して、少し浮かれながら余談を書いています。

礼座をされてたとのこと、大成功で本当にうれしい!
特に途中、地震のこともあり、改めて日常が当たり前でないことを思い、備えていかないといけないこと、そして究極的には、悔いない日々を過ごさないといけないことも感じて、シビアな現実のなかで、強く生きることの意味を考えさせられた日々だったように思います。

そのなかでも、推しの松本潤くんのインスタなどで書かれる言葉がいつも熟慮されていて、あたたかい人だなと思ったり、
いろんな方々との交流で見せる可愛さもあったりと、きっと日々、真剣に取り組んでクタクタであろうに、、頼もしくもあり、でもやはり、日本の片隅から応援をしていきたいなと思います。

しかし、今回の「舞台美術」は難解でした・・

伊藤憙朔さんが戦前生まれで、言葉使いが独特なこともあり(探した著作は本当に戦争中に発刊されたものもあった)読んでいると眠くなるという。
そして、舞台美術をどの切り口から考察すればいいのか、かなり悩み、、それでも、その生まれた歴史を知れて本当によかった!(調べられた範囲なので、きっともっと深いはずですが)

舞台美術の概念などは、次回に持ち越してしまったので、ここからまた勉強です(笑)

今回思ったことは、松本潤くんは演出家として一体どれほど努力したのだろうか、ということです。
伊藤憙朔さんほど、その道のプロの方でも、江戸職人の大道具さんたちとのやり取りに苦戦されている様子があって、、大変だなと。。

潤くんは、ライブ演出において、照明や音響にあたる方々と、専門用語を使ってしっかりやりとりされていることも、ステージに関わる全般、最新技術のことも頭に入れて、演出していること知っていたけれど、実感が薄かったのかもしれない。どれほどの労力かということが。。

伊藤憙朔さんの書いた舞台美術の単語や用途のページ数が莫大で、これ以上の知識を学んで実践してる潤くんって、一体、、もう尊敬が増すばかり!!

きっと演出を始めたとき、まだ若かったこともあって、プロの大人たちのなかできっとすごく困難なこともあっただろうから、、それを嵐の為に歯を食いしばって勉強し、ここまできた潤くんの道を後から追ってるような感覚になりました。感謝しかないです。

舞台美術を勉強しながら、これに近い分野の潤くんの仕事。
演出してる、って簡単に考えてはいたことを反省。
これだけの歴史と対峙して、そこに挑んで、アイドルの新境地を開いていったこと、すごいです。
今、東京の舞台を無事に終えて、ホッとされてることと思いながら、何よりケガなどなく、皆さんが健康で、無事やりぬかれたことが一番うれしい!!

野田さんの世界観は、本を読んでいても軽妙な語り口でありながら、核心をついてきて、日ごろ見ないようにしてるような大事なことを教えてくれて、野田さんの魅力は確かにすごい!!面白いと、秀才が、野田さんの「物事を見極める目」で合体して、見事に融合しているイメージ。食したことのない食感というか、新鮮です!!

潤くんが独立して初めての仕事が、こんなにもすごい方々との仕事でうれしい!
エンタメで生きる潤くんを応援のnote、楽しみながらまた!

ロンドン千秋楽まで、応援するぞ!おーー!!!

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