寄り道~古沢さん脚本・ドラえもん映画感想(ネタバレ含)

どうする家康に日々感動していて、その脚本を書かれている古沢さんの作品に興味が湧き、公開されたドラえもん映画を観てきた。

ユートピア(理想郷)を目撃したのび太君の冒険記で、これまた全く予備知識は入れずに行ったので、目にするもの、聞く言葉すべてが新鮮で、ドラえもん達の声が変わったことにもビックリだった(だいぶとTVも観てない)

古沢さんの想像力の魅力を大河で感じていたので、それは子ども向けの映画でどう反映されるのかも楽しみで仕方なかった。

まず驚いたのは、想像していた、子ども向けのドタバタの戦いやキャッチーな踊りや歌などではなく、本気で哲学的なことを問うてる作品であることであった。子ども向けだからといって、軽くはしない。子どもも、一人の小さな大人、人間として、語るべきこと、伝えるべきことを全力で伝えようとしていることが、作品を通して感じた。扱っていたテーマが、そもそも深い。

ユートピアとはなんぞや。
これに明確に答えられる大人がいるだろうか。それを本気で子どもに問いかけている。すごい。
仕事柄、子どもが会話にする映画を、子どもたちとの会話を膨らませる為に観に行くことも多いが、ドラえもんは観に行ったと聞いた子が少なく、今回観たのは、寡黙なクラスの男の子がうれしそうにお父さんとお姉ちゃんとみてきたと話してくれ、内容を尋ねると、困った顔をしていたので、
宇宙とか?難しい話だったのかな、よし!先生も観てくるね、と、約束したし、その子と話を深めたい気持ちもあった。

そして古沢さんの描いた今回のドラえもんを観て、これは確かに私に「○○がすごかった!」など話すのが伝えにくかったのが分かった。

でもとてもうれしそうだったから、そして今日映画館は満員で、たくさん小さい子どももいたけれど、誰ひとり、騒いだり、立ち上がって帰ったりする子がいなかった。それは驚きだった。
今まで観た子ども向け映画は、大抵、そういう光景があるから。子どもは飽きるのが普通だ。ただし、真剣に問いかけているものには、真剣で返す、それもまた真実。

みんな、息をのむように、じっと観ている。そして私も。何がすごいか、それは、想像をはるかに越えた、
いろんな時代の大空を悠々と渡っていく、「爽快感あふれる、世界観」。

古沢さんの描く作品はコンフィデンスマンくらいしか観たことがないが、どうする家康もそうであるが、なんだろう、この「あったかみ」と「爽快感」の往復。
どんなトラブル、困難にあっても、ボロボロになっても、観ているこちらもハラハラするけれど、根底に流れる、絶対大丈夫という「安心感」。

きっと古沢さんは「優しいひと」が好きで、なんらかの優しさに包まれてきた人なんだと思う。その優しさに、そこから生まれる想像力の世界に、子どもたちも包まれて、幸せそうだった。

想像力が素晴らしい。異世界ではあるが、どこか身近なことが特徴。小さきもの、何気ないものを生かす名人なのだ。
ある意味、巨大なものの方が刺激的で安直で、描きやすい。しかし小さいもの、そばにあるものをどう夢をもたせるか?
そのために勉強し、時間をかけて、大変な労力をかけ、小さきものに、フワリと魔法にかけて、生まれてきたこの想像力の世界。
今回の映画の主題はユートピアだったが、古沢さんの想像力こそがユートピアだと思った。小さきものに、本当に優しい。

この映画では、真のユートピアとは?を投げかけてくる深いシーンがいくつもある。誰もがいい人で、犯罪も戦争も貧困もない。みんなが平和に暮らしていて、パーフェクトな人間しかいない。あぁ、それが確かに、人が思うユートピアかもしれない。
のび太はしかし、このユートピアの学校に学び過ごしても、ジャイアンたちは定型の「いいひと」「パーフェクト」に変化していくのに、あまり変化しない。

そしてそれが、三聖人にとって、最重要なことであった。

なんだろう、のび太が他の子たちのようにならなかったのは、なぜ?
その答えは、きっと各々が感じていくように、との思いだろうか、明確には作品で言葉にはなっていない。

私は感じたことは、、のび太は、「パーフェクト」な人になるには、「優し過ぎた」ということだろうか。つまりは、究極の「人間らしさ」を持っていたともいえる。
のび太は確かに弱いし、ずるいところもあったり、逃げるし、泣くし、だらだらもする。非常に人間らしい。
でもその、非常に人間らしいという点で、
のび太ほど、「あたたかい涙」を人のために流せる人はいない。
だからこそロボットであるドラえもんは、のび太が大親友だったのだ。

のび太は、人間らしい、という点で卓越していたからこそ、画一的なパーフェクト人間にはならなかった。喜怒哀楽があるからこそ、人間はパーフェクトにはならない。それでいい。それが自然で、それを携えて、何かを成そうと努力するのがいいのだ。感情に揺れがあるのが自然で、それがあるから芸術も生まれる。彩りがある。

これが正解かは、わからない。非常に深い問いかけでもあるからだ。いや、正解は各人の心に委ねているところが、古沢さんらしくていい。
それぞれの感じ方を大切にして、明確には、答えをだしていないことが多い。その自由さが、広さが心地よい。

このユートピアを謳って、世界は戦争もあったし、このユートピア論だけでも、古今東西どれほどの書物があろうかしれないし、これからも人は求めていくだろう。
そしてこの映画を観ている小さな瞳は、きっとこれから学校、社会に出て、つまずくこともあろう。その時に、この映画をまた観て、一緒にみた人、側にいてくれた人を思い出してほしい。語り合った人を思い出してほしい。
その人もパーフェクトではなかったけれど、あなたを大好きな人だったはず。ここではないどこかにカンペキな所があるわけではなく、
わいわい、がやがや、喜怒哀楽で生きてる今が、貴重なこと、そのままでいいことを、忘れないでほしい。

明日、この映画を観たあの園児と何を語ろうか。いや、私からは多く言わなくていい、彼の感じたことに耳を傾けてあげよう、ヒントだけでいい。彼の気持ちに寄り添ってあげたい。その時間をつくろうと思えた、そんな作品だった。

この映画の興行収入や、どうする家康の視聴率も言われていくのだろうけれど、いつも思い出す言葉ある。アンパンマンを描いたやなせたかし先生の言葉だ。
小さな詩の雑誌を出版し、さほど大きな売れはしなかったけれど
「しかし、僕は思う。数字じゃない。スピリットなんだ」(アンパンマンの遺書(岩波新書文庫)p188

最後にトルストイより
「科学や芸術はパンや水と同様に必要なものである。いやそれ以上に必要なものである。
真の科学とは使命を知ることであり、すなわち万民のほんとうの善(幸福)を知ることである。
ほんとうの芸術とは使命の表現であり、万民のほんとうの善の表現である。」
(「トルストイの生涯」ロマン・ロラン著 岩波文庫p90)

素敵な大河にこの心を感じつつ、敬愛を込めて。

(余談)
どうする家康のために勉強を始めた2022年1月を思い出す。
99.9映画のライブビューイングで一生懸命仕事している、松本潤くんをしっかりと観て、感激して、何か応援したくて始めた、大河の勉強。
古く錆びれた自転車のような私の文章力、、保育の道を歩き出してからは製作や仕事関係ですっかり離れていたから、本当にこのnoteも苦労した、今もまだ勉強の感覚は戻ってはきてないけれど
今日はどうしても、こんな時刻になったけれど、書いておきたかった。

松本潤くんの周りでいろいろなことが起こっていて、、うまく言葉にできないけれど、人の心の変化というものをどう捉えていいのか、迷っているのは私で。どんな葛藤が、あるだろうと心配だったり、、仕事も忙しいなかで、この大変な時代に、今の仕事、大河をやり抜くことが、どれほど大変かを思って、どうしても今日は書いておこうと思いました。応援団がいることを。

嵐もこれからどうなっていくのかも正直わからないし、きっと多くの人が不安のはず。まさに現代は不安の時代。
どう時代が変容しても、普遍のものがあるとしたら、私のそれは恩人への感謝で、そこの一つは「嵐君たちへの感謝」です。長い間、最前線の厳しい社会で戦ってきてくれた戦友、嵐くん。

素敵な音楽をありがとう、仲間の世界を見せてくれてありがとう。
どんなことになっても、5人がそれぞれに幸せでいてくれることが、なによりです!そのためになによりも健康でいてほしいので、どうか、それだけは!!
特に多忙極める潤くんが、少しでもゆっくりできますように。
本当にいい作品をみせてくれて、ありがとう!!最後まで、応援のいい風を送り続けます!!!ゆっくりとした風を。

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