建築家までの道程~田根剛さんの語録を読んで

「植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる。」『エミール(上)』ルソー著・岩波文庫p24

ルソーは人間形成において教育がどれほど大切か、教育の重要性を説いたが、人物を知る上で、その人がどのような教育、経験を経てきたかを知ることはとても大事だと考えている。人格形成の骨格ともいえる教育、大事である。

田根剛さんの作品を写真でみた時に、それを一番に感じ、彼の今までを知りたいと思った。
東京・六本木での松本潤さんの展覧会で、田根剛さんとのインスタントレーションの中に身を置いたとき、言い知れない感情が身体ごと包んだ時、一体この人は、どんな世界をみてきたのだろうか?
心に壮大なものを取り入れている人に違いないと直感で感じた。

これをクリエイトした田根剛さんという人。建築家。

そもそも建築という分野にあまりにも疎い自分が、一体どこから学んでいくところから始めようか、かなり逡巡した。
建築もまた、あまりにも奥深いものだったからだ。古代から人類が情熱をかけてきた分野。歴史があまりにも深い。

ここでは建築とはなんたるや、その歴史などについて知るひとつのきっかけとして、建築様式など建築そのものよりも、私は建築家、その人の背景、思想から入ることとした。

今回はその第一歩であり、これから様々な建築家の受けてきた教育的環境や、人生を学びながら、
その道程に含まれる葛藤と情熱を起点として、そこから生まれた建築について学んでいこうと思う。

まず、田根さんのエストニア図書館の写真をみて、また現在改築中の帝国ホテルの完成図をみて衝撃を受けた。斬新でいて、洗練されていて、深い意味をもたせている形にただ見とれる。

田根さんが建築を創作する原動力は、どこにあるのだろうか。
彼がこの建築をみる人に、ここで過ごす人の心に、何を語りかけ、働きかけているのだろうか。表現の源を何としているのだろうか。

心の底から生みだされたものは、全て価値がある。
この文化的価値の高い作品を作り出す田根さんはどのように建築家となっていかれたのだろうか。

<サッカー少年時代>
1979年東京生まれ。
建築家を志す前は、プロサッカー選手を目指しており、世界のスター選手に憧れ一日中ひたすらサッカーにうちこみ、高校生ではユースクラブに入るが、プロに育っていく仲間と自分の実力の差の限界を少しずつ感じ、高校生が終わる頃には道を変えることを決意していた。

サッカーをされていた当時は建築やデザインに興味はなかったが、北海道に憧れがあり、北海道にある附属大学は建築科となっており進学するにあたり、校長面接があり、そこで建築学科への志望動機を話す必要があったため、図書館へ。そこでバルセロナにあるアントニオ・ガウディが手掛けた建築を図書館の本の中から見つけ、建築にはこんなに凄いものがあるのかと衝撃を受ける。

「複雑で奇怪な形、光の差し込む洞窟のような空間、遠い異国のバルセロナの風景、そこに映る人々の顔、ガウディの世界に強く魅了された」p65

また彼は家系的に美術が好きになる素養もあったようである。姉は芸術大学に進み、日本画をしている人が家系におられたり、母親は建築学科出身。父親はエンジニアである。体育を得意とし、美術、社会、国語が好きだったようだが、物理や数学の成績の方がよかったようである。

<大学>
東海大附属高校から、大自然を抱く北海道に憧れ東海大の北海道校を選択し、そこに建築学科があり、進学を果たすことができた。

大学で与えられた課題「北海道トマムにある安藤忠雄氏の<水の教会>を模型でつくる」を通して、単純な二つの四角い箱と思われるような構造が、実は複雑な迷路のように綿密に構成されており、その写真に圧倒され、
実際に<水の教会>に足を運ぶのである。

「あまりの驚きに動けなくなった。ずっと立ち止まっていた。
すると案内の人が、窓を開けましょうかと尋ねてくれた。
突然、眼の前にあったはずの巨大なガラスの壁面がみるみるうちに開いていった。全身が震えた。
向こうに見えていたはずの水辺も十字架も森も音も光も、すべてが体の中に飛び込んできた。「これが建築か・・」
初めての体験だった」(同上引用)

<20歳、海外の建築をめぐる>
バックパックを背負い、1カ月欧州へ。スペイン~イタリア~フランス、パリへ建築を訪ね、ひたすら風景を見てまわり、ヨーロッパ建築の壮大さや街の色彩の豊かさ、歴史が重なる街の重厚さに憧れ、そしてまたその中で現代の人が楽しそうに暮らしている風景が印象的に心に刻まれていく。
街のカテドラルや小さな教会と現代建築が力強く共存している姿や、イタリアの街の賑わいや豊かさに惚れこむも、
パリの近代建築には違和感を覚えている。

その理由を後に彼はこう述べている。
「近代建築の理念や理想は素晴らしいのですが、建物と土地が離れすぎてしまった面もあると思っています。たとえば、建物自体のデザインが素晴らしくても、そこにほとんど地域性が感じられないものというものも少なくありません。
これからの建築は、土から掘り返していくことでその場所でしか実現できないつながりというものを取り戻していくべきだと思っていますし、自分が設計をする時は、常に土地とのつながりを意識しています。(中略)

情報があふれる時代だからこそ、記憶というものが強度を持つと思っているし、記憶が新しい意味を生み、そこから新しい時代がつくられていくと考えています。」『佐藤可士和の対話ノート』p168より


そして、欧州で受けた新鮮な感動、その日々を書き残している。

「毎日が知らない出来事であふれていた。片言の言葉で人と出会い、訪ねる街の質感に触発され、車窓から眺める田園風景も、薄暗い夜の虚ろな街並みも、なにもかもがただ新鮮だった。
そしてこの旅が終わる頃、自分の中でなにかが開けていくのを感じた。」
p66(同上)

20歳の若き目は様々なことを、どこまでも真っすぐに、素直に、まっさらな心に吸い込んでいったことがわかる。
若い時に、本物に触れる、身を置きに行くことでしか得られない経験は絶対にある。柔らかい心のうちに、探究心をもって、大きな世界を知ることが後への土壌になっていくのだと思う。
多感な時期に本物に触れる。本物の人物に触れることが、実は人生で一番幸せなことなのだと私は思う一人である。


<留学>
そして大学で建築学科に入り、本格的に建築家になろうと考えたのは、大学3年の時にスウェーデンに交換留学に行った時。
デザイン学校HDKへ留学。そこで建築やアート、デザインが街の中に自然にあることに感銘を受け、交換留学先に建築学科がなかったため、デザイン学部に入り、椅子とインテリアを学び、工房にも入って、実際に夢中で椅子を作るなど材料の感触も知っていく。デザインの面白さも知ったが、改めて建築を学びたいと思うこととなる。

留学後期はスウェーデンのチャルマース工科大学の建築学科へ自らポートフォリオを持ち込み、留学先を自ら変えてしまうほど、熱心に建築を学び、半分がスウェーデン人、残りは欧州の留学生の友達のなか切磋琢磨し、たくさんの世界各国の友達ができる。そしてスタジオでのプレゼンの連続に奮闘するのである。

彼の北欧への所感が印象深い。
「北欧の生活から学んだことは人生を変えた。北国は成長しない。すべてはゆっくりと成熟へ向かっていた。複雑なこともシンプルに考える。
長い時間を掛け、実直に、物事がじっくり熟成されていく。
深く静かな長い冬、その時間が都市や生活やひとを成熟させる。
人が人を育てる教育、現実を真直ぐ見つめる姿勢、思慮深い日々の生活、経済からも物質からも得られない深みのある豊かさ。
それは高度に静かに燃える青い炎のように北欧の深く静かな時間に触れた。
それは自分の世界を大きく広げた。」p67


<卒業後、再留学そして欧での仕事>
社会から外れず普通の就職を望む父親を説得し、一年間の留学の了承を得て、建築教育の先進的なデンマーク王立芸術アカデミーにて、現役で活躍する建築家たちからも教わり、建築に夢中になれる環境のもと、人生でかけがえのない時間を過ごす。北欧の深い思想や高い文化水準を支えているものをもっと学びたかったのである。

北欧デザイン、それを使うための社会的な豊かさや人々の生活の温かさを目指している北欧のものづくりを彼は吸収していく。

仕事を探すにあたり、様々な友人や建築家から声をかけられるが、
先の見えそうな日本で一般的な建築家の道ではなく、自分の道を歩きたい、自分に負けたくないと、欧で働くことを望む。


<2003年7月>
ヘニング・ラーセン事務所にて様々なコンペを勝ち取るが、コンペで考えた案が実際にどうやってつくっていくかということに携わっていきたいという気持ちが膨らみ、アイデアだけではなく実際の建物の作り方を学びたいという気持ちも強くなり、「実施プロジェクトをやらせてほしい」と希望するが
、通らず、退職。

しかし、デンマークでの求職活動も難航し、ビザの問題も重なりつつあり、しかし海外でチャレンジしたいという熱意は持ち続けるなかで、2005年若手で活躍していたイギリスの建築家デイヴィッド・アジャイの建築を知り、その異彩に惹かれ、ロンドンへ行き、彼のロンドンの授業を終えるのを待ち、必死に自分のポートフォリオを見てもらい、10秒ほど見たデイヴィットは、即採用を決める。
田根さんの、やりたいという強い思いをもって行動したことで、道が開けたのである。

<2005年1月>
ロンドンへ。その事務所では一人ひとりに担当プロジェクトを与えられ、図面を描き続け、工夫を考え抜き、建物の作り方を初めて知って実施設計の経験を積んでいく。
プロジェクトの図面に奮闘する日々のなか、友人とロンドン・デザイン・ギャラリーの展覧会を観に行った時に、一緒にコンペでも出してみないかと盛り上がり面白そうなコンペを探すことに。
彼は実施設計ばかりしているなかで、アイデアを考えなくなっていたことに気付いて、コンペの道も歩きだしたのである。

そのなかで最大級の規模と内容のコンペである「エストニア・ナショナル・ミュージアム」に、初めて挑戦する。「夢は大きく見ることにした」。

事務所で働きながら、週末にアイデアを持ち寄り、3人の仲間と議論を続け、ソ連占領時代に作られた空軍基地の滑走路、その負の遺産と国立博物館を一直線につなぐというコンセプトに決め、毎晩、朝まで作業を続け、
<Memory field>と名付ける。

<2006年1月>
延床面積34000mのエストニア国立博物館のコンペ、世界108の応募案の中から優勝。授賞式は大統領、文化大臣などが訪れ、国を挙げての式典で、この選考に選ばれた経緯も知る。斬新な提案が支持されたのだ。

<独立>
エストニアのプロジェクトが現実味をおびてきたため、26歳で独立。DGT(エストニア国立図書館を共にする3人のこと)のうち、二人は元々パリの事務所で働いていたこともあり、田根さん自身は言葉もわからない土地で新出発することに不安もあったが、直観を信じて、拠点をパリとする。

その多岐にわたる経営の分野(契約書の発行、収入、税金、保険、雇用、設備投資など)も苦労しつつも一気に学び、同時に大プロジェクトに取り組む。

<エストニア国立図書館>
陽の沈まない白夜の夏、氷点下20℃以下の日もあるエストニアに通い続ける日々は、国家プロジェクトという大船を進めるという苦難の道でもあった。
エンジニアと距離があることで生まれる誤解と衝突。
現地での設計形式の違い。
省エネ対策、寒冷地仕様、ミュジアムからの要求。
厳しい予算。
独立してからの4年間を、未経験の悩みも吹き飛ばし、毎日を真剣勝負で過ごすが、2010年、エストニアの経済破綻により、プロジェクトは止まる。

<2012年夏>
プロジェクト再始動。入札され、施工会社も決まるが、建築現場は移民が多く、現地の職人に身振り手振りで物事を伝え、スケッチを描き自らの意図を伝える。欧独特の、工期の遅れや段取りの違い、、しかし、最後には素晴らしい仕事をし、伝統が持つ力、職人の気質に感銘を受け、一方では、
オランダでは無駄なく明確に動くなどさまざまな土地の気質を感じながら、

「それでも情熱と敬意はどんな現場も裏切らない。よい仕事をするために現場のエネルギー、そこに国境や言語の壁は存在しない。」p75

そしてイタリアについて
「特に僕が好きなイタリアは、経済力という点では日本に劣りますが、文化というものを財産と考え、守ってきた歴史がある」とそれぞれの国の良き点を見出していくのである。


<DGTの仕事>
2010年フランスrenaultのモーターショー(2012年~2015年まで世界約20都市を巡回する威信をかけたショー)

2012年日本の新国立競技場のコンペにて、古墳スタジアムの構想が最終審査に残る。

演出振付家・金森穣Noismの舞台装置
デザイナー・皆川明のミナ・ペルホネンのファンションショー
石井孝之Frieze Artのインスタントレーション2008
指揮者・小澤征爾オペラ「青ひげ公の城」の舞台装置2011
新井淳一「布・伝統と創生」展覧会2013
など、日本から世界へと活躍している巨匠たちと対峙し共に仕事。

TOSHIBAミラノサローネ2011
経済省のクールジャパン事業2012
CITIZENのインスタントレーション2013
など、日本を世界に向けて発信する国際的なフェアの仕事。
欧州に拠点を置くからこそのグローバルな視点での提案をしている。

建築依頼もある。
横浜のオフィスビルや、レバノンの集合住宅
石巻・地域環境計画

「建築家は建物の設計だけが仕事ではない。この時代の文化をつくること、それが建築家としての役割だと思っている。」

<現在>
2017年ATELIER TSUYOSHI TANE ARCHITECTS設立
ARERIERという創作の場、クラフトワークやものづくりの原点という過去から変わらないヒューマンな部分と
ARCHITECTSという建築家の集団で、思考をする仕事と、未来を作る仕事
多国籍スタッフ15人と常に国際的な視点をもって、それぞれの土地の文化や歴史に根差す特有の記憶を掘り下げ、現代建築に携わっている。

彼の挑戦はつづいている。

まとめよう。

大学で、田根さんは
建築学科が工学部ではなく、芸術工学部という学部で学んだことが、
「芸術と工学が融合することで建築になる」という考え方を基盤とした学部で学んだことが、のちに田根さんの
「建築の機能や利便性ということ以上に、空間の美しさやその背景にある思想」などに影響を与えていくこととなったこと。教育の原点。


大学卒業後2年ほどで、レバノン人のリナ・ゴットメさんとロンドンで知り合い、コンペに挑戦。そして国家レベルのプロジェクトであるエストニア図書館のコンペには、さらにイタリア人のダン・ドレルさんも加わってもらい、三人でコンペに参加。
この三人がのちのDGT.(ドレル・ゴットメ・田根 アーキテクツ)となって仲間と切磋琢磨して進んできたこと。友との触発。

ソ連から独立し、若いリーダーたちを中心に新しい国をつくっていこうという機運も手伝い、この3人が採用されるという、画期的な経験を若くして得て、そして、その後、実地で多くの人たちのなかで共に働き、共に汗を流すなかでかけがえのない経験をしていったこと。実地経験。

エストニア図書館完成までの10年の間で、
他のコンペにも出しつつ、建築のみならず舞台芸術や展覧会の会場構成などにも関わりながらも、彼は基本理念を明確化してく。それは

「時間軸が異なることで空間の密度や強度が変わってくる」

イメージを重視し、毎日使う住宅は、展覧会のような密度の濃い空間には適さないことや、
エストニア図書館のような仕事では、未来を見据えた上で、これからのためにどうあるべきかという観点からの設計を考えるという、
それぞれの目的を明確にして、設計していくやり方を確立していったのである。経験から、自分軸が定まっていく過程。

田根さんはエストニア国立博物館の完成の時、集まった人々の顔をみながらこのような想いを抱いていた。
「エストニアにミュージアムができあがる。このことを多くの人たちが喜んでくれていた。人々が集まる力、希望を願う力、その想いを強く受け取った。
建築はすべての人のために開かれている。建築に国境の壁はなくなったのだ。世界はチャンスに満たされている。そのために建築は常に必要とされている。」

彼はすべての教育、経験を現場での努力によって、ここまでの実践の理念に昇華していったことにただただ感嘆するばかりである。

目先の利害のためのものでもない、そこで暮らす人のために、目にする人のためにと、そして土地の記憶も未来に生かしていくという
永遠を志向する奥深い考え方から創造された仕事は、朽ちることのない真金の輝きを放っているように思う。

彼の建築は、自己の考え方、理想を建築のなかに表現し、人々に捧げ、人々のために貢献していこうという心が一番、胸を打たれた。
人と建築を愛していることが感じられる言葉たちは、彼の直近のインスタでのフランス芸術文化勲章の祝賀会でのメッセージにもあふれていた。

「世代から世代へ、その記憶、精神、その尊厳を、未来へと受け継いでいくためにも、これからも文化を切り拓き、未来を創り、支えていく皆様が集う契機になればと思っております。

世界は加速し、倫理観が問われ、先の見えない不確かな世界へ向かうようでもありますが、これからも声を掛け合い、支え合い、前へ、未来へ、共に歩みを進めていけたらと思っております。」
2024/3/14田根剛インスタグラムより抜粋

そして、エストニア国立図書館でも顕著な彼の建築理念の柱でもある
「場所の記憶」のコンセプトについて、彼はこう語る。

「建築というのは特定の場所につくっていくものですが、未来に残すということを意識した時に、その場所が持っていた過去のさまざまな出来事や記憶を蓄積させることが大切なんじゃないかと考えています。
たとえば、エストニア国立博物館は、かつて軍用の滑走路として使われていた場所に建てられています。
こうした場所の記憶というのは、隠蔽されたり抹消されがちなものですが、
民族の歴史を伝えていく国立博物館とつなげることで、新しい意味やこの場所を使っていく意義のようなものが生まれます。
誰もが共有している「集合の記憶」を通じて、まだ見えていないものや輪郭がぼやけているものにフォーカスし、掘り下げていくアプローチである」
『佐藤可武士和の対話ノート』p167

彼のここまでの歩みに触れたとき、特に若き日に欧州を旅した時の情景が印象的であった。その情景は写真などで目にしたわけではないが、
自然の景色、人間の姿形、人間が創造したもの、それらをどう感じとるかは、その人の内面の投影といえるが、
それをとても真直ぐに受け取った彼の心根、内面の強さが、実に逞しくて、頼もしく思えるのだ。
それこそが、彼のもつ強さ。

人や土地のもつ記憶に寄り添う、大きな心の田に植わり、
しっかりと根をはり、
大空へと伸びていく剛い稲は、豊かな実りを私たちに届けてくれている。
まさに名の如く。

彼は日本への熱い想いももつ人で、敗戦を経験した日本がそれにより、自国の歴史や文化が全否定された気になり、もはや現代に至っては、経済的な成長も望めず成熟に向かうわけでもないこの国に、暗澹たる想いをもっていたが、こう語るのだ。

「でも、そういう状況にあるからこそ発想によって未来を変えていく必要があるし、日本にはこれだけ素晴らしいものがあったんだということを伝えていきたいという思いを、いまは強く持っています。」p170対話ノートより

作ったひとの人間性、感性、置かれた環境、こころの状態などを反映していく芸術や、建築などのクリエーションの世界。
あの素敵な建築は、この心ありてなのだと、その心をもってしてリノベーションされる帝国ホテルの完成が実に楽しみである。

建築は、ひとつひとつ人間の力で創造された美の世界。
あの美しいなかにまた身を置くことを楽しみにしている。

そして彼の歴史や、その土地への記憶への考え方がとても素敵である。

「場所の記憶」という彼の新鮮な言葉。

悠久の歴史、大自然のなかの人間の小ささ、その反面、そのなかで生き続けながら、歴史を築いていく人間へのいとおしいような感情。

容易に破壊もされていくような人間の営みの一切をつつみこんでいく、続いていく遥かなる歴史への思い、平和への祈り、永遠なるものへの憧憬、時代の変遷をくづりながら、文化や環境までも研究し、掘り下げて、その概念を建築へつなげる。
厳しい風土や、環境にあっても、それでもひたすら生き抜いていく人間への温かな眼差しが作品から感じられる。


彼はこれからも軸足をパリに置きながら、母国・日本をも外国ととらえ、世界各地に視野を置いて、それぞれ海外でのプロジェクトは、その土地に詳しいローカルアーキテクトと協働しながら、建築していくとのこと。

「作家へのベストな作品」ではなく「その土地に対してのベスト」を目指して。
建築は「場所に意味を与えるもの」

そこに建った建物は時代時代で柔軟に変えたり直したらいいのである。そして、建築が放つ美意識や力強さは永遠である。

最後に『ミケランジェロの生涯』よりロマン・ロランの言葉を引用して終えたい。
「偉大な魂は高い山嶺のようである。風が吹き荒れ雲が包んでしまう。
けれどもそこでは他のどこよりも充分にまた強く呼吸できる。
空気は清く心のよごれを洗い落とす。そうして雲が晴れると、そこから人類を俯瞰できる。(中略)
多くの人々が一度のこのいただきの上で生きられるとは私は言わない。
けれども一年の中一日はそこに巡礼して昇ることを。
そこで肺臓の息と血管の血を一新することを。
あの高みで、人は「永遠なるもの」をより間近かに感じ、そうして日々の闘いのために心を強められて、
人生の平野にまた降りてこられるだろう。」p134岩波文庫

田根さんの過去・現在・未来をすべて見渡すような山脈のような心に、書物から触れられたことに感謝しつつ。


(余談)
松本潤展覧会の田根剛さんのインスタントレーションは、「松本潤の脳内、心の内を散歩する」(展覧会配布のインストラクションより)
との言葉の通り、今まで経験したことのない不思議の世界だった。

江戸と東京を主眼に置いた創作を当初考えていたが、徳川家康を演じた松本潤くんの心の内側で起こっている変化こそ刮目すべきことではないかと田根さんは感じたようで、それを形としたその空間は、ランダムに糸で繋がれた紙のなかを進むのだが

その間隔や場所が実によくできていて、きっと田根さんはサッカーもされていたので、人がこうきたとき、どう動くかを読み解く人でもあるのかもしれない。人の動線を知り尽くした人が作る空間にも感じた。

改めて、こんな経験まで推し活でできるなんて、すごく贅沢で、心も豊かになるしありがたく思って、ほかほかした気持ちで会場を後にしたことを思い出す。
先日、自身の祝賀会での様子をインスタにあげるとき、田根さんは櫻井翔くんと松本潤くんとの写真を一番にもってきてくださった。

足は地につきながら、未来を展望する田根さんらしい。
この二人は本当に情熱をもつ、これからのリーダーとなっていく人たちだと、声援してくださっていることに涙がでそうになった。
負けてはいけない、心ある人は必ずいる、そう思って希望をもらえた!

田根さんの経歴は、苦闘の連続のはずなのに、そこに何の悲哀もない。とうとうと語られる田根さんの言葉たちは、まるで強固なレンガのように、聴く者の心のなかに、新しくて強いものを築いていく。

松本潤くん自身にも、6人のクリエイターの方々に匹敵する情熱があるからこそ、一緒に歩いている。すごいことだなと思う。。

私は嵐のことは大好きだったけれど、自分の仕事に必死だったので、音楽を聴くぐらいしか時間もなく、ライブは円盤でみんなで観るのが通例で。
もっと同時進行で彼らの学んでいることや、葛藤に心を寄せていけばよかったと母親の気持ちのような感覚に最近はよくなっている。
25周年、嵐再結成なるか?!と言われているが、私が嵐くんたちに望むことは、ただひとつ。

健康で、日々それぞれに楽しみをみつけて過ごしてくれてたらいい。

それで迎えられたら、それが嬉しい。
どれも当たり前ではないことで、すごく大事なことだから。もちろん彼らの歌も聴きたいし、潤くんも出てこない今、寂しさはあるけれど、
ずっと励ましをもらってきたから、彼らに「もらってきた励ましで、こんなに自分も元気でっせ!」という笑顔で25周年を過ごしたいと思っている。

さぁ、いよいよ新年度がはじまる!
私もただ、これからの未来のひとたちによき教育を届けられる人になりたいと感じた学びであった。

いろんなことが、これからいい方に開けていきますようにー!!

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