家康への道~大坂の陣の描き方・山岡荘八氏の書籍より

吉川英治氏『宮本武蔵』の最後の章にこのような名文がある。
「波騒(なみざい)は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。
けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。
水の深さを。」

海上が荒れすさぶような時代にあって、ある者は波を利用しうまく立ち回り生きていて、それが上手く生きているようで、歯がゆいような想いをする者もあろう。
しかし、深く深く荘厳に静まり、いかなる芥(あくた)も静かに浄化していく深海の心を持つ者こそが、本当に深い人生を生きている、満足の最後を迎えられる人間なのではないだろうか、と吉川英治氏は現代の私たちにも問いかけている。

荒れすさんでいた戦国をひたぶるに生き抜いた人物を知ることは、同様に当時と変わらず、世界各地で今も人の業が渦巻く波騒のような日々を生きる私たちにとって、
生きる上でのひとつの道標になるに違いない。
いや、この25か月に及ぶ学びの日々は、ものの考え方に深みをもたらし、自分の生き方の基準を再確認できる日々でもあった。

結論からいうと、家康を学んだことによってもたらされたものは、
想像しなかった事が頻発し、激しく心が揺れ動くような現代にあって、
すべてを悠々として浄化していくような、自分の真の目的を忘れない深海のような深い生き方の大切さを感じる、学びの道となった。

復讐や恨み、欲望がとどまることのない時代、多くの尊い命が犠牲のとなってきた日本の長き戦国時代を終わらせた徳川家康という人物。
他の二英傑が成せなかったことをどうして彼は成せたのか、何が違ったのか。

「もうひとつのどうする家康」の特番で、脚本家の古沢さんと主役の松本潤さんが、ある答えを導きだすのに苦悩しているシーンが印象的であった。

それは、安寧の世を目指してきた人物が、どうして大坂の陣で最後に大砲まで使って徹底的に豊臣一族を滅ぼしたのかという点について古沢さんたちとも改めて意見を忌憚なく出し合いながら、整合性のある答え、道筋を導き出す過程における苦悩のシーンである。

そして最終的にこの大河ドラマでは「大坂の陣」を、
戦乱をまた引き起こしかねない危険分子を一掃するために、自ら地獄の業を背負う覚悟で家康が引き受けたとして描いた。すべては安寧の世を確かなものにするために。まるで冒頭に引用した吉川英治氏の言葉「深海」のような心ともいえる。

そして最終回。
ここまでの苦悩を背負い成し遂げた安寧の世、戦乱なき江戸時代になったものの、家康は世間から評価されるわけでなく、ある者は怖れ、ある者は嘲り、ある者は尊すぎるとして距離を置き、
まさしく孤高の人となった。

しかし、深い孤独のなかでまさに終焉を迎えんとする瞬間、彼には無上の財産があることを、きちんと理解してくれている人がいることを伝えるようなシーンが出現するのである。
とてもあたたかい家族・家臣団らが現れ、彼らに囲まれ歌い踊り、談笑したり、謝礼を述べる風景で目を閉じ、幕を閉じる。
それは幻想なのか、昔の回顧なのか、願望なのか。
どれであっても、彼の最後にみた風景は「暁」が告げる、希望あふれる世界であった。

哀しい涙ではなく、優しい光が満ちる涙で終わらせる、
どこまでも「観る人に希望を与える」古沢さんらしい描き方で終わったのである。誰も不幸のまま、終わらせることはしない。希望の光は留める。
それが古沢さんの脚本の最大の魅力であると思う。

家康を描いた現代の人物として、真っ先にあげられる人のひとりに山岡荘八氏がいるのだが、氏が一貫して抱いていた家康像の根幹の思想は、
今回の古沢さんの描いた家康像に近いものがあるように思うのだ。

山岡荘八氏は、この大坂の陣と家康の関係を考察している。
『徳川家康を語る』あかね書房を紐解きたい。

まず家康と登誉上人との出会いについて書かれているp24

「家康が19歳桶狭間の戦い後に大樹寺に逃げ込んだとき、もう駄目だという時に諭される言葉が
「あなたはそう簡単にあきらめてはいけない。あなたのお父さんも24歳で殺され、お祖父は25歳で殺されている。あなたこそここで平和を築かなければならない使命を背負って生まれてきているのではないか」

ということで実は、
「厭離穢土欣求浄土」、地上へ浄土をつくるというような旗印を作ってやって戦わせているのです。」

そして59歳になった家康が関ケ原の天下分け目の戦いにこれと同じ旗印をかかげて戦っている点をあげ、
「家康の生涯の中に、平和を求める気持ちは実は初めから絶えることなくあった。これはあの当時の武将とは異なる点。(中略)
家康が世間に思われているようなタヌキではなく、非常に純真であって、同時にいつもきまじめな人であった。あまり冗談など言って打ち解けることはできない。つまり無口なきまじめな理想家だった」p24

として、家康の「厭離穢土欣求浄土」の信念の強さを強調している。

そして秀頼や淀姫を大切にしていた証拠も残っているのに、国家安康の鐘銘問題で難くせをつけだし、なんの力もない秀頼を滅ぼしてしまったことは、同情の余地なし、との見方や
仲良くしていた様や親切こそは実は猫をかぶったウソであり、最後に見せた残酷な形が家康の本質であるとか、
死を前に欲が出てあのような馬鹿らしいことをしたのは耄碌してしまっていたからだとする説をあげながら、
英雄の一生をあそこで台無しにしてしまったという見解についても述べながら

実は、山岡荘八氏をもってしても、徳川家康の一生を連載で書くにあたり何よりの難問は、この「大坂の陣」のことだったようで、
だれもが納得しないような出来事だったというのが今日までも常識の結論で、当時ですら、かなり苦悩された様子も書かれている。
成程、これは確かに古沢さんも主演の松本さんも誰もがあのような堅い表情で討論していたことも頷ける。今なお難問なのである。

山岡荘八氏は
慶長18年5月までは、家康が秀頼を滅ぼそうとする形跡はみられなかった、むしろ秀頼に対して自分の愛する孫・千姫と一緒に大坂城を出て一つの大大名で満足しゆったりと暮らしてほしいと提案もしている。
しかしこの直後から、考え方が急変し、この二年後に大坂城が落城となっている過程をみると

淀君の、秀頼を大旦那にして天下を取れないかとする動きや、方広寺の大仏殿を建てている動きなどを静かに家康は内偵しつつ、
秀頼から金が足りなくなったため、貸してほしいと頼まれるも断る家康。しかしのちに一万石やって、安心させて、内偵を続けさせている。

そして9月には伊達政宗が、支倉常長など68人をスペインやローマに派遣し、伊達政宗もあとで船を出してフィリップ三世に会見したとき、最初に頼んだものが、大砲を積んだ軍艦を三隻貸してくれと頼んでいるのである。結局これは叶わなかったものの、
家康は内偵のなかで、秀頼らを幕府を揺るがす危険な存在とみなし、なんとしても大坂城から出ていかせる必要がでてきたのである(しかし、秀頼の自害までは望んではいなかったとされ、自害したと知り、二度と京の地はふめない可能性を感じ、家康は遺言を書いたとされている。)

ここで山岡荘八氏独自の見解が展開されていく。p103~

家康ゆかりの地の人ですら、大坂夏の陣で、あれだけは家康はむごすぎた、あそこで秀頼を殺す必要はなかったのではないかとする、現代も思われている事柄についてこう述べる。
「あのとき、もし家康が大坂城をそのままにしておくような人だったら、本当の信仰は持っていなかったと私は考える。」と。

ここで家康の信仰心に焦点を当てていることに驚いた。

山岡氏はこの理論の展開の第一として、三英傑の一番大きな違いを「信仰の有無」に焦点をあてている。
「一人は信仰のない革命家である。
一人は信仰のない天才的な政治家である。
ところが一人は信仰を持った政治家である」p104

信長がそれだとする証拠は、有名な比叡山の焼き払い。北陸の一向宗も徹底的にやっつけており、初めて上洛した際には本願寺らから軍用金を徴収していること。ではなぜキリスト教はというと、日本の僧侶と宣教師を法論させたり、新しく入ってくるものをどんどん取り入れ、既存のものは気に入らないものはどんどん改革し、排斥していったことからその革命家の気質をみ、そこに確たる信仰心の無さをみているのである。

秀吉は、信長の良い面を学び取った人物であり、性格は庶民的で陽性で包容力があり大勢の人を巧みに使いこなした面を書きつつ、しかしその彼のはっきりとした信仰心までは見つけられないとしつつも、
可愛がっていた女房に狐がつくと、伏見稲荷に詰問状を出し、詰問していたり、天下人になって同様のことがあったときには、神様であろうと国内の野狐刈りを毎年やって討ち果たすぞと信長のような気概を見せるようにもなっていることを指摘。
大きな寺や神社を建てたり、保護していた点については、お寺を建立するのは大旦那だからこそ、という一種の見栄ととっている。

そして家康。
彼は、晩年においても念仏の写経をしていたことや、
父や祖父も家臣から殺されていることから、祖母も母も信仰心が厚い人で、
その影響を受けていることと、
今川家人質生活の少年時代に、雪斎という禅宗の名僧に学問を教わっていることから、信仰が生活に近いところにあったとしている。
そして19歳で大樹寺で登誉上人から諫められて信仰を深めている点を述べつつ、家康は一向宗でも、あとて手を握る一端の余裕を残していたことをあげている。


そして展開の第二として興味深い考察をしている。それは、死の様相である。

山岡荘八氏は、信仰の有無が最終的に如実に表れたとされるのは、その死の様相として、重きを置いているのだ。

確かに信長は本能寺に倒れた。光秀は信長を尊敬していたが心が変わったのはあの比叡山焼き討ちとし、信長のその行いこそが、天下を一統するまで八分まできあがっていたところを、哀れにも倒れてしまった。

秀吉は、土地が狭いことと人口問題について皆を満足させるためには領地を広げる必要があると考え、朝鮮征伐をはじめてしまい、始末がつかなくなり、体調も悪化し、意識が乱れて耄碌(もうろく)してしまい、秀頼のことを頼むと五大老に何回も誓詞を書かせているが、それでも安心できず、最後は心細いまま終えてしまったのである。

そして家康であるが、75歳の時、正月二一日に鷹狩で、日ごろ粗食なのに鯛のてんぷらが美味しいと沢山食べ過ぎたのか病に倒れ、翌年4月に亡くなるのである(今は胃癌という説もある)

家康は亡くなる寸前まで意識がはっきりしていたとするのは、六男の松平忠輝が許しを請いにやってきても「あれを許しても天下の為にならん」と断固として許さなかった。
ここで注目なのは、
「何事も、天下の平和のため、で、たとえ肉親であっても許さないという、この理性の強さ」p111
ここを家康の特筆すべき点としているのである。

そして、諸大名を集めての遺言、
「天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、吾これをうらみず」との有名な言葉。
(「天下も私するものではない、いわば預かりものなのだから、自分の子孫にその器量がなければだれにとられてもかまわない」)

ここに、山岡荘八氏は家康の信仰心が際立っているとしている。

「それまでの武将たちは天下を取ろうという意識丸出しで、信仰心がありませんから天下は私(わたし)するものだ、それができるものだと思っていた。
ところが家康という人は、仏教を深く信仰していたからでしょう、
財産とか、肉体や生命といったものまで私自身のものではないという、ひとつの悟りの境地に達していたからこそ、この遺言に帰結したとしている。

では徳川の天下が簡単にはひっくり返らないように様々な制度を作って手を打っていたとするのは、あくまでも自分の私利私欲のためではなく、
「天下の安定平和を願うために生きてきたから」とみている。
家康は自分だけの栄耀栄華をむさぼる目的で生きてなかったことは、派手な宴をしたり、贅沢をしなかったことからもわかる。

家康が「何ものも自分のものではなく、預かっているもの」という考えが、モノを大切にし、恩賞をばらまくこともせず、
子孫にも貯蓄をすすめ、ここに三百年続いた泰平の基礎を見出すのである。
家康の「信仰を基盤とした大きな理性」こそが、天下を取らせ、世を安寧にしたとしているのは、山岡荘八氏らしい考察である。

関ヶ原も、家康が平和を招来しなければ、信長と秀吉の努力も徒労に終わるからこそ、本人もそれを自覚し、再び応仁の乱以後のような乱世に逆戻りしないように、着々と手をうつ責任者として生きたとしているのである。

そして、本題の大阪の陣である。

「私が家康を偉いと思うのは、一番やりたくないことをした点であります。
家康の生涯の中でも一番つらかったろうと思われるのです。」
「大坂城をそのままにしておきますと必ず内乱が起こる、その内、家康も高齢ですから死ぬ、死んだあとで必ず内乱が起こる。これでは元の木阿弥、乱世に逆戻りです。」p121

とし、家康はそうならないように、外堀を埋めさせたり、交渉していたが、
淀君が気が強かったことが、ますます国内の危険因子、反乱の輩を増大させてしまっていたのである。家康が大坂城を攻撃しなかったならば、前田家など、家康が死んだ直後に必ず大規模な内乱が起こったとみる。

「家康は、豊臣家を滅ぼせば、自分の評判が悪くなることを十分に分かっていた、にもかかわらず断固決断したのであります。
これは家康にとっても断腸の想いであったに違いない。あれだけ手を尽くしても豊臣家を救えなかったのですから。

家康という人が自分一代のことのみ考えて、評判を気にする人だったら、おそらくあのような勇気ある決断を下すはずがない。
あの勇気というものは大変なものです。

この一番大事なところが、実は見落とされていて、私はいつも小説を書きながら痛感しておるわけです。(中略)

私は小説家として『徳川家康』をそういうふうにとらえて、書いてまいるつもりであります。」p124

そしてまたこうも述べている。

「家康という人は、人間として人間が一生懸命自己形成を考えて行って行った場合に、たどり着ける最高のところまでたどり着いてみせてくれた人だと。必要なことは、堅実にやって行った、その結果たどりついた。

つまり、人間がここまで真剣になって、自分を磨いて行けば行けるんだという、その可能性の限界を見せてくれたということで、私は別の意味でわれわれに近い親しいものを感ずるわけでございます」p135

そして関ケ原の前には日本の教育の道をつくることを考えはじめ、藤原惺窩や林羅山ら、漢学者に連絡をつけ、また天台宗の天海など、家康は真剣に宗教や教育に取り組んでいる点もあげている。

そして天下を預かることとなってからは、オランダ人やイギリス人を顧問として、世界を相手にして本気で勉強しつくしている点も。

長くなってしまったが、山岡荘八氏の考察する家康という人物の最も特筆すべき点は、
仏教の「自分が私有するのではなく、自分が預かるのだ、自分のものは無い」という思想が根底にずっとあっての彼の政治、行いであったとしているのである。

ここでまとめに入りたい。

難問とされていた、なぜ家康は大坂の陣で徹底的に豊臣家を滅ぼしたのか。
それは非道ではなく、もうろくでもない。
彼の信念がそうさせた、という考えである。

その信念とは、必ず「厭離穢土欣求浄土」を成してみせる。その為には自分が世間から嫌われようとも苦ではない。
預かりものである天下を、まず泰平に成すために、自分の存在はなきものとして、あるべき形にしてみせる、という信仰で鍛えられた強い大きな理性である。自己完成を目指し忍耐強く歩いてきたことから得た強き理性。

そしてそれを成した彼に待っていたのは、苦しい死ではなく、暁の待つ静かな死だったのである。

そこまでの結論に至ったとき、自分のなかでも何か大きな安堵がもたらされた。家康という人物をこれからも別の角度から揶揄する人があっても、自分が掴んだこの感覚を大事にしていきたい。
彼の和歌を読んだときから、彼の「慈悲」の心が実は一番大事なのではないかとずっと思って勉強してきたが、私は特にそれを感じだのは、

家康が出版に力を入れ、識字の向上に力を入れていたことである。のちに江戸時代に寺子屋という形になっていくが、その後の日本の発展の基礎となった識字率の向上をもたらしたことは、何を意味するのか。

それは、家康は、関ケ原や大坂の陣で亡くなっていった命を決して無駄にせず、荒野となった地に「教育」の基礎という種を植えたことが、私は一番、家康のことが好きな点である。

学を広めるという、未来に希望の種を植えたこと。
それこそが彼の慈悲の心の結晶であると思っている。
京都の圓光寺のあの雰囲気。戦野で荒れ果てた地に学問の場所を建てた意味を忘れたくないと思う。

それは大河ドラマ「どうする家康」でもつかんだ感覚にも似ている。人間は自分の心の琴線に触れたものだけを抱いていきていくものだ。

大河を一年間観ながら、物語の世界に入り込んで生きる瞬間をもちながら、社会と人間への新しい目を養う追体験ができたと思って、この豊かな時間をもらえたことを感謝している。

内容を高める努力をつねに積み重ねてきたスタッフ、キャストの皆さま、そして古沢さん。大変な心労を伴ったと思って、感謝しかない。
たくさんの批判のなかで、物語に希望を描き抜いたこと、作り上げたことが本当に素晴らしいと思う。


この世のすべては夢、幻とみた秀吉の辞世の句は間違いではない。
では一体最後に人間は何を求めて、死を迎えるのだろうか。

人間は最後の瞬間まで、本当の幸福、よろこびを求めるのかもしれない。
それは所有でもなく、ただ、真実の光に浴せる人間らしい向上心なのではないだろうか。
それを思ったのは、家康の辞世の句の「暁」のイメージからである。なにもない空のなかで、ただ昇っていく太陽の光の美しさを家康はみたのなら、彼の人生は、決して不幸ではなかったと思う。

戦国時代は人気であるゆえ、それぞれの想いもあり、どう描いても批判もあったと思う。でも今の大河『源氏物語』にはこうある。

「よく言へば、すべて何ごとも空しからずなりぬや」
(よい意味に解すれば、すべてどんなことでも無益なものはないということになるのですね)
『新編日本古典文学全集22源氏物語③』小学館

あらゆることも前向きにとらえて、自分のこれからをただ黙々と、自分の強い信念のままに。そんな人生を思う。

あの駿府の地で、駿府城跡地にある公園で思索しながら、家康も歩いていたであろう大地を歩きながら、ただ咲いている、生きている自然をみて思った。

今、自分が生きる大地に根をはり、自分らしい花を咲かせ、実を結ぶ。平凡であっても、実はそれが一番の幸せなのだと。

家康への学びは、これからまた違うジャンルを勉強しここで取り組んでいくことで続けていきたい。
家康への道は、学の道だった。
眠っていた自分のなかの「学びの道」を開けてくれた、どうする家康応援への道に、心からの感謝を。
ありがとうございました!


(余談)
「もうひとつのどうする家康」という、大河の舞台裏の番組をようやく視聴して、これは一生の宝物だなと思って、何かにつまずいたときにまた観たいと思っています。
というのも、これほどまでに主演の松本潤くんはじめ、皆さんが努力してのこの作品だったんだということを知ったからです(だから視聴するまで覚悟の時間が必要でした!号泣必死なので。。)

エンタメにうとい人生だったので、、特にドラマはほとんどみてなくて、ましてやそれが作られる舞台裏となると、漫画の「ガラスの仮面」でまやちゃんが頑張ってたな、くらいしか知らなかったので、リハにしても、撮影にしても、これだけのプレッシャーのなかで人間はやり抜けるんだと、感動して、しかもいろんな苦難のあるなかで、やり抜くその根性、強さ。涙が止まらなかった。

推しというより、嵐くんに対しては、同じく大変な時代、社会を一緒に生きてきた同志のような感覚なので、ただ単純に推しとして応援というよりも、私自身もなにか、苦手なことに挑戦して、自分も成長して応援したいというのもあって、この勉強もしてきました。

介護と仕事は時間と体力との戦いで、認知症の親の独り言にうんうんと聞きながら、家康関連本を読んだり、隙間時間に仮眠をとりたいけれど少しでも書こうとすすめてきました。
部屋中が書物だらけになったことも。
大学の卒論以来の、付箋と書物とコピーの山を、自分の思考を整理しながらまとめていく。図書館で時間を忘れて、読みふけってしまい、慌てて帰宅して介護や家事をしながら、思考を頭のなかでまとめていくということも日常でした。友だちの悩みをきいたり、友達や子どもたちの応援のために時間をつくるのも日常で、だからこのブログも時間が本当になくて、でも月に一回と決めた以上やろうと挑戦してきました。

でも松本潤くんの努力の様子は、想像していた以上に大変だったから、自分がもがいて勉強していたことや応援のツイートに必死だったことなんて本当に微細なことで、
ここまでの努力を思って、ただただ感動でした。なによりも、苦労しても「だれかが喜んでくれたら」という心でやり抜いたその姿が稀有なことです。。

ここから、どんな道がひらけていくのかわからないですが、その道に素敵な花が咲きますようにーー!!
そしてこの考察の冒頭に書いた、『宮本武蔵』で書かれた吉川英治氏の言葉のように、深海のような深さをもつ松本潤くんが、おおいに遊びながら、楽しみながら、健康で過ごしててほしいなと思います!

かたくるしい文章になってしまいましたが、今回は、大河ドラマとあの舞台裏をみての、心からの感謝と敬愛を込めて。
本当に、本当に素敵な時間をありがとうございました!!

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