演出家・蜷川幸雄さんの歩み&演技指導と変移

「人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。<中略>
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。
歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではない。
幸福は表現的なものである。鳥が歌うが如くおのずから外に現れて、他の人を幸福にするものが真の幸福である。」
『人生論ノート』三木清著・新潮文庫p21

人生最後の瞬間まで、車椅子であっても、肺を悪くして鼻に酸素呼吸器具をつけてでも、最高の舞台を求め続け、老若男女だれもが演ずることを楽しめる空間を創り、教え続けた人、蜷川幸雄さん。

自身がいかに満身創痍の身であっても、よりよい舞台を届け続けるために、評価も批判も全部受け止めて、なおも創作という夢を抱き、外に向かって動き続けた彼の人生を書物で読みながら、涙があふれたこと度々。

そして思ったことは、晩年最後の瞬間まで皆とともに夢の舞台を創り続け、彼は「幸福」だったということ。

それをもたらした彼の人格に、少しでも迫れる考察にしたい。

蜷川さんと、時に反駁しながらも理解し合い、長く親交のあった劇評論家の扇田昭彦さんはその著『才能の森~現代演劇の創り手たち』2005年で、実に様々な才能あふれる演出家の方々のことを書かれているが、

彼は蜷川さんがまだ新宿を拠点としていた頃の、1969年9月上映された劇団「現代人劇場」公演、清水邦夫作『真情あふれる軽薄さ』で初めて蜷川さんの演出をみて、

「舞台全体が実にダイナミックでありながら、群衆一人一人の動きが違うなど、細部の節々まで入念に造形してある演出力に私は驚いた。この舞台で「蜷川幸雄」の名は一挙に忘れられないものになった。」p29

と語っており、それ以後、実に36年間朝日新聞の記者として劇評論家として、蜷川さんの創る舞台を観劇し、劇評も書いてこられた人であり、
その方が、蜷川さんの人柄をこう述べられている。

「「世界のニナガワ」と呼ばれるほど国際的にもめざましい活動を続け、東京・渋谷のシアターコクーンの芸術監督、桐朋学園短大の学長を務め、2004年には国の文化功労者にもなった蜷川だが、
私の知る限り、彼の態度にはもったいぶったところや気取ったところはどこにもない。語る言葉は率直で、気持ちがいい。
基本的に悲劇志向の演出家だが、彼自身の雰囲気は明るく、快活だ。」

「語り手としての蜷川は雄弁で、その言葉には情熱と分かりやすい表現力がある。しかも、もともと相手を楽しませようとする俳優的資質が強いので(初期の蜷川は俳優だった)、
彼の話は途中からしだいに劇的になる傾向があり、それがまたインタビューを一段と精彩あるスリリングなものにする。

そんな彼の話を聞いていると、こちらにもその熱い情熱が乗り移ってきて、いつしか彼の魅力のとりこになっている自分を見出すことになる。

多くのスタッフ、キャストの心を自分の引力圏に引き入れて協同作業をする必要がある演出家にとって、これは得がたい資質である。」p27

蜷川さんの人柄に直に触れてきた方の言葉は深い。

また生活も実に質素で堅実だったようで、毎朝5時に起床する、徹底した朝型人間で、午前中に稽古の復習と予習を綿密に行い、約束の時間には決して遅れない。また自然、特に虫が嫌いな繊細な面もあり、暴力をふるうような喧嘩もしたことは一度もない蜷川さんが、

あの有名な「灰皿伝説」(稽古場で怠惰な役者に怒り、よくアルミの灰皿を投げつけた)というものが生まれたのだろう?
その始まりは?そこから世界のニナガワとなっていくまでにどんな葛藤が現場であったのだろう。
人が何かを為す時、その背景が必ずある。
ことさらに「灰皿伝説」や厳しい叱責が強調されがちだが、なのに何故、彼を慕う人たちがたくさんいたのだろうか。きっとそこに大切なことがあるはず。まずは、彼の人生を紐解きながら、実像に少しでもせまってみたいと

なるべく簡潔にを心して、まとめていきたい。

どうして蜷川さんが、灰皿を投げるまで、イライラとしたものを抱えていたのか。
それを紐解くには、彼の誕生から演劇に至るまでの歩みと、役者から演出家へ、そして新劇から商業演劇へと移行した軌跡を知らねばならないであろう。

(育ち〜俳優まで)
1935年10月、埼玉県川口市で腕のいい洋服仕立て職人の末っ子として誕生。3人の兄は魚釣りなどの戸外遊びに興じるも、蜷川さんは生理的に虫も苦手。異物が浮かんでそうな荒川で泳ぐのは嫌で、学校の人工プールの水泳は得意であった。

戦争中、川口には本格的な空襲に遭わず、しかし荒川の対岸の赤羽が空襲の的となり赤い炎を目撃している。
小学4年で敗戦を迎えた。戦争経験者である。

舞台芸術に興味をもつようになったのは、華やかなことが好きな母親の影響で、歌舞伎や文楽、オペラ、バレエなどの観劇に出かけ、小さい頃から舞台に親しんできていたことがあげられる。

成績も優秀。中学、高校と開成へ。しかし、高校一年から二年への進級に失敗し留年。成績も振るわず、成績順に机を並べるようなやり方に勉学の本来の姿とは?と、教師に問い詰め、同じ思いの仲間と午後の授業をさぼり、
文学関係、古書街に行ったりもしていた。

留年という初めての挫折は、既存の組織に対する違和感を生み、自己をみつめなおすことに繋がった。
蜷川さんはこう語る。

「早い時期に落第という屈辱感を味わったことで、乗り越えるためには、自分の中に核となるものが必要と気づきました。
他人のせいにはできない。自分で歩いていくしかないとも思い知った。」
「僕が、問題児と言われる俳優が好きで、許容量が大きいのは、落第した時に得たものかもしれい。」
と、後年笑顔で語ったそうだ。

多感な青春期に見た桜はいつも辛かったと彼は語る。開成高校の留年に続き、
卒業の春に、絵が好きだったこともあり、
東京藝術大学の受験するも不合格。
「桜が灰色に見えて、美しいと思ったことは一度もない。桜が桜に見えるまで20年もかかった」と。

東京藝術大学の受験。
テクニックの積み重ねがない自分には無理とわかり、ただ、蜷川さんは熱い思いをぶつけるには、「絵は物足りない」とも感じていた。

もっと直裁に心へ訴えかけ、身体を共鳴させる表現手段はないか。

そして、高校留年のとき観劇した、名優の「戦争は嫌です!」と叫びながら走る姿に衝撃を受け、

東京藝術大学の入試に失敗した年、劇団青俳の『制服』(安部公房作)を観て、感動し、研究生募集に応募し合格。

19歳で演劇人生をスタートさせたのである。

青俳は、映画やTVにも積極的に出演する、新しい新劇を作ろうと結成された劇団。そのなかで研究生蜷川さんはというと、

「自意識過剰で演技はうまくないのに、プライドの高い、本当に生意気な研究生だった」と言われていた。
新米の役者なのに、僕は俳優!と、裏方スタッフの手伝いは一切せずトンカチは一度も持たなかった。
「貴族俳優」との渾名が付けられてもいたという。それは先輩から実家を出てアルバイトをして苦労することを忠告されたときに、

「僕は、想像力と観念を使って、経験に代える俳優になるんです」と、拒否。かなり知的派という面がみられる。

ただ、この青俳時代にあった演出家による「芸術研究会」で受けた講義により、「サブテクスト」(演出の際にそれぞれの台詞の背後にどういう行動があるか分析)や、戯曲分析を学び、蜷川さんもそれからは役をもらうと、夜でも枕元にノートを置いて思いついたサブテクストを書き込むことをするようになる。

そして盟友の劇作家・清水邦夫(当時、早大文学部演劇科4年生)さんとの出会いである。一緒に「60年代安保」期の青年の心情を描いた作品を作ったりもするが、そこで清水さんの、俳優・蜷川評は
「彼が俳優でよかったのは、あれだけで(屈折した、冬の立ち木に似た青年役)、その後、演出に変わってよかったと思う(笑い)」
であった。

その後、青俳の演出家の倉橋さんは、自分のダメ出しをまるきし無視する劇団員ばかり!ということで、劇団を去り、演出家不在に。

またその頃(1966年)同じ青俳の女優真山知子さんと結婚。真山さんは反対されるも、
「私は一切の妥協なしで、「上質な人」と一緒になりたい」と押し切ったそうである。夫人の先見の明。
ここまでが生い立ちから、俳優・蜷川さんの歩みである。ここからは、どうして俳優から演出家になったのかをみてみたい。

(60年代演劇の動きのなかで)

60年代後半、東京・新宿を中心に、日米安全保闘争やベトナム反戦運動に加えて、
演劇・映画など文化面でも従来のものを厳しく否定する動きが盛んになり、

当時のマスコミは、唐十郎や寺山修司らの演劇を、
「アンダーグラウンド演劇」略して「アングラ演劇」と呼び、
従来の新劇とは違うと異端視。

しかしそれらは確実に、現代劇の新たな可能性を切り開く実験性、独創性に富み、演劇の構図を大きく変えていくのである。

そんな大きな流れのなかで、
60年代演劇の刺激を受けつつ、自身の俳優としての限界も感じており、
31歳のとき、演出家に転じようと決める。
妻からは少し怒られるも、
「男の人は夢を見ないと生きていけないのね。やりたいことやれば」と笑顔で。

1967年に、初演出。蟹江敬三ら青俳の若手俳優を集めてドイツ作家の『戸口の外で』をアトリエ公演し、自信をもった蜷川さんは、
盟友清水邦夫さんに、創作劇を依頼し、そのテーマ、セット模型など作ってみせて、その情熱に感化され、清水邦夫さんは徹夜して『真情あふるる軽薄さ』といえ作品を書き上げた。

しかし、ここで劇団から難色が。

「俳優出身の演出家というのは、みんな名優だった。だから俳優に対して説得力があった。(名優と言えない)君に演出は無理じゃないか」と。

1968年に、それを機に、蟹江敬三さんら16人とともに退団し、
劇団「現代人劇場」を結成。

稽古場での初日、引っ越しの日、蜷川さんにとってそれは、彼等の将来を背負ったことの責任感から、引越し蕎麦の代わりにラーメンをとるも、激しい胃痛のため食べられなかった。

本当に自分に演出の才能があるのか、これから大丈夫なのか。
その恐怖心たるや。以後老年期まで、ラーメンが食べられなくなったという。

そして、1969年アートシアター新宿文化にて『真情あふるる軽薄さ』で、演出家として鮮烈なデビュー!

映画館の上映が終わった21:30からの開演で、観客の通路でも演じたり、セットも思い切り飾り立てられ、溢れんばかりに人(一般人も含む)が登場するといった、立体的な舞台は斬新。

登場する40人全員の動きが違ったり、スローモーションがあったり、歌舞伎のような仕掛けもあったり。こんな映画館が劇場という狭いハンデを利用しての舞台美術を観客は楽しみにしていた。

劇団「現代人劇場」は若手が中心で、清水邦夫作・蜷川演出で3本、作品をつくりながら、この時代を反映していて、70年代安保の街頭デモにも参加し、稽古場にはヘルメットも転がっていたようだ。

そしてここもまた、
1971年11月、突然の解散。
「劇団員の中に芝居よりも政治にのめりこむ者がいる一方で、配役を巡って不満を言う役者もいる。劇団を作った時の一体感がなくなった」と蜷川さん。

それ以降、子育てを担う主夫となり、妻が女優業として働く。蜷川さんは育児書通りの完璧な育児を目指したためダウンもしたりしている。ストイックは育児でもだったようである。

1972年には、好きな俳優ら4人と
「櫻社」を立ち上げる。
この頃、連合赤軍による浅間山山荘事件がおき、60年代からの政治闘争が衰退、新宿の街からも活気が消えていっていた。

「櫻社」での芝居をしながら、蜷川さんは、現代人劇場の繰り返しのような戯曲、演技、演出。
そして思わぬところで笑うといった観客たちとの連帯感もなくなってきていた。想像範囲内の作品しか作れなくなっていた。

そして1973年蜷川さんはこう述べて、新宿を去る。
「僕らの舞台は衰弱しています。もう一度、ゼロからやり直して再出発したい。そしていつか新宿に戻って来たい。」

(商業演劇へ)

1974年初頭、5月の日生劇場の『ロミオとジュリエット』の演出を東宝演劇部から申し入れがある。
大劇場で、深い闇と沈黙に包まれた舞台が一転してまばゆい光に満ち、
そこに3層からなる半円形の装置、鐘の音、群衆。新鮮な驚きの舞台は好評だったが、

櫻社の劇団員から、批判が集中。盟友清水邦夫まで批判側にまわった。
理由は、「商業演劇で演出したこと」
結局、劇団は解散となる。

蜷川さんの衝撃はきつく、仲間から裏切り者の烙印。

そんな孤立した蜷川さんに声をかけたのが
劇作家・唐十郎さんだった。
1975年3月『唐版・滝の白糸』での演出を依頼。スターの沢田研二さんが主役。
(長年の盟友・清水邦夫さんとのコンビが復活するのは1982年となる)

ここから商業演劇で活躍していく蜷川さんだが、彼の演劇人生の真の原点は「60年代演劇」との論調もある。

蜷川さんは、唐十郎さんにこう語っている。

「僕は演劇界で唯一、尊敬する演劇人が唐さんです。これは本当です。」文藝別冊『蜷川幸雄』p119
どうして、ここまでの言葉がでてきたのか、まずは唐さんの才能である。

「ひとりぼっちでいたとき、唐さんの状況劇場「二都物語」に度肝を抜かれ、僕にはない感性だらけで、どういうふうにやったら唐十郎のようなイメージが僕に沸くことができるんだろうと思い、
その結果なったのが十二指腸潰瘍と胃潰瘍でした。吐血するわけです。そのくらい追い込んで、なんとか唐十郎のようなイメージが沸かないかと。」

唐十郎さんのことを、蜷川さんが大好きな理由はもうひとつある。

電車の中吊り広告に
「蜷川幸雄への公開質問状」が出され、自分が創った劇団を裏切って、商業演劇に転向した!と世間の目も厳しく、演劇評論家も否定的な劇評しか掲載しない方針を打ち出すような四面楚歌。

「小劇場にいられなくなって商業演劇をやったわけで、商業演劇といっても年に一本か二本だから食えない。年に300日くらいは仕事がなく、主夫業をしていました。

鬱々として家にいたある日、唐十郎さんから演出依頼の電話があって。「俺さ、今ちょっと評判悪いんだよ」と答えたのですが、
「いやいや、才能ありゃいいんだよ」と、あっけらかんと言われて、

すごく救われました。それで、僕はやっと生き返りました。
唐さんと出会って「ああ、よかったなぁ」と思いました。」p122

商業演劇に移ったことで、猛批難を受け孤独の底にあった彼を救った人。そんな存在が、世界のニナガワに繋がったことを忘れてはいけない。苦しいときの友が、真の友であり、そんな友をもった人こそが幸せだと思う。

商業演劇に移った理由をこう語っている。
「商業演劇でも演出は、僕自身の成長と新しい変革のきっかけになり、それが櫻社に戻った時のための勉強にもなると考えていた。

その新しい何かを発見し、絞り出すためには、過酷な条件を自分に課すか、あるいは他者から課せられるか、そのいずれしかない。

自分の中に何かを生み出す自己変革は、大変に難しい。
何かにぎりぎりに追いつめられたり、何かの制約があって初めて広がる可能性を、僕は経験して知っていましたから。」p70

自分を成長させようと挑戦した商業演劇。一緒に仲間を誘うも皆から断れ、すさまじい衝撃を受け、集団が崩壊していく。完全に孤立した蜷川さんが、ここからどうやって再起していったのだろう。

前出したように、そんな彼を見捨てなった、才能を信じてくれた人が、彼を、彼の人生をひろいあげたのである。

(灰皿伝説のはじまり)

蜷川さんが、どうして厳しい叱責を演出稽古の時にするのか、
ここまでの背景を知らずして、書いてはいけないと、長く生い立ちから、俳優の頃、演出家として初期の頃を書いてきましたが、

どうして、いつ頃から彼は厳しくなったのか、その場面と、蜷川さんの言葉から引用したい。

始まりは、商業演劇の『ロミオとジュリエット』の初稽古のとき。
稽古初日までにセリフを覚えてくるように伝えていたのに、主役の松本幸四郎さん以外、誰も覚えてなかった。しかも立ち稽古に、サングラスをしていたり、サンダルをはいていたり。乱闘シーンも軽めにやっていた。
そんな姿に蜷川さんは激昂し、2時間待つからセリフを覚えるように伝えても、2時間後も、翌日も、セリフが入らない。

本番で声が嗄れるからと小さな声の俳優も。

「要するに、本気で稽古していないんです。僕らはずっと小劇場の時から、大道具から小道具まで本番そっくりにして、本気で稽古をやっていましたから。
それに僕は、小劇場を追われるようにして商業演劇に行ったから、もう意地でも戻れない。絶対に成功しなきゃならないと必死だった。」

「アンダーグラウンドから来た何の権威もない立場とはいえ、自ら退路を断って、背水の陣でやっているわけです。

そこで、物を投げたんです。
灰皿を投げる、靴は投げる、テーブルは蹴る。怒鳴ったり、罵ったりしながらね。
ただ僕は、開成高校の頃野球部だったので、人には当たらないように投げていた。そこは冷静に計算してね。
本当にぶつけたいわけじゃなく、心理的な揺さぶりをかけていたわけです。」
『演劇ほど面白いものはない』p78

そんな、背水の陣の思いもあっての蜷川さんの指導。

「そんないい加減な演技をやってるから、商業演劇はなめられるんだよって、怒鳴りました。」
これだけのお金といろんな人を集めているのだから、いい仕事をして、本来演劇が持っている一種の尊厳を、取り戻したかった蜷川さん。ここまでの蜷川さんの人生を学んだからこそ、彼の心境にせまれる気がする。

そして、この灰皿が飛ぶような修羅場の稽古場を見て、松本幸四郎さんが穏やかにこう振る舞ったのである。

すでにセリフは完璧。
「自分の出番になると、ウイキョウの花を手にかざしながら、通路から出てきました。
そしてそのシーンの終わりまで、文学座にいた西岡徳馬と二人で、息もつかず演じ通した。それが終わると、期せずして、おーっという歓声と拍手が、稽古場から湧きおこりました。

その時、ああ、やはり素晴らしい人がいるなと、感じました。
商業演劇も戦うべきことはあるけど、新しい面白いことができるかもしれない。」p80
彼の知らないいろんな人がたくさんいて、豊かな経験をした人がいる。その人たちと自分に新しいコミュニケーションを創っていこう、と。

ここでも人から「希望」をもらった蜷川さんは、その独自の演出をそこからも貫いていく。
置いてあった立派な演出家の椅子は使わず、床に新聞紙を敷いて座り、怒鳴ったり罵声を浴びせたりしながら、稽古場を駆け回ってダメ出ししたりしていくというスタイルは、噂となり、
アングラからくる人がそもそも珍しく、そして若くて威勢がいいとのことで、森繫久彌さんなど稽古の見学にこられるように。

そして舞台稽古で有名ベテラン俳優と大喧嘩したり、女性の振付師を泣かせてしまったりで、彼はすっかり、威勢がよく、自己顕示欲が強い人間と誤解されてしまっていくのである。

でも現場の人間は知っていた。「あれだけ必死にやっているんだから、言うことを聞こうよ」とスタッフさんたちは、稽古場中を裸足で走り回って孤軍奮闘している姿を見て、この人を助けてあげたいと思って、それ以降も蜷川さんを手伝っていかれることに。

真剣でやっていることを、わかるひとは、わかっていた。
そして、最後の章では、彼がその演出方法を変えていく様子を追っていきたいと思う。(長くなりすぎているので箇条書きにします)

(演出方法の変移のきっかけ)

・経験豊かで、苦労されてきた俳優さんの前では、なまじっかなやり方や偉そうなことをしても、すべてバレるということもわかりました。『リア王』の稽古の時、財津一郎さんに「嘘で怒らないでください」と言われたことがある。
それからは、つまらない小細工はやめて、裸の自分を見せようと、心がけるようになりました。『演劇ほど面白いものはない』p88

・僕はある時期から、自分が全部仕切る演劇は鮮烈であっても、発展性がないと考えるようになりました。俳優が自分で考えた役作りに、思いがけないアイディアや面白さが出てくる場合がある。
ですから、みんなが考えながら持ち寄る役作りを、積極的に進めています。p100

・演出家とは何かというと、それは観客の千の目を代表している立場であり、僕自身、そういう自負はあります。
けれども同時に、演じる側・俳優に対して演技をジャッジして、いろいろと指示したり、否定したりする立場でもある。
そのことに対して、僕は傲慢というか、おこがましさや恥ずかしさを覚えることがあるのです。そういう羞恥心を乗り越えるには、自分が創る芝居や演出が、エリート臭くない、普通の庶民生活者、身近な自分の父や母のような目線でいつもいたい。
また俳優に対しても、そういう目線で、豊かで楽しい舞台を創れるようにしたいと、心がけています。p101

・演出家という仕事は、嫌なことも人に言わなければならない。
総合芸術である演劇では、人間関係が大事で、コミュニケーションが難しいんです。僕も昔のようにがむしゃらでなく、声高に主張しなくても、みんなに対して説得力を持つ人でありたい。もっと多義的な解釈ができるようになりたいと思う。自意識過剰な僕は、そういうことが苦手だった。
だけど、納得さえできれば、相手を受け入れて付き合うことが、『夏の夜の夢』『身毒丸』を演出した頃からか、素直にできるようになってきた気がする。
p127

・演劇は、人と人との出会いに尽きると思うんです。演出のイメージも必ずしも絶対的なものではない。
失敗したりやり直したいと思ったり、もっと違う選択があり得たとか。自分が見落としていたものがあるなとか。
人生でも演劇でも、気づかなかった自分に出会い発見することが、何よりも面白いんで。
そしてシームワークこそ、演劇で最も大事なものなんですね。p128

蜷川さんは、40代後半から50代、海外からも高い評価を受けながらも、心は疲弊していてメランコリーのような状態にもなっていた時、手作りの小さなお芝居に戻った時期があり、その時、原点からもう一度出直そうと再起されていく。

・一緒にやってくれる俳優がいるなら、原点からもう一度出直そうと。
それまでのモノクロで、神経症的でつまらなくなっていた芝居に、色彩がよみがえりはじめると、ほかのプロデューサーたちが次々に、新しい仕事をやりませんかと声をかけてくれた。年間の演出本数も増えてきました。p125

するといつの間にか、自分の存在証明をし続けなければならないという長年の意識も消えてきて、自然に仕事が楽しくなってきた。
ずっと苦闘を続けていくうちに、僕の余計な緊張や、肩ひじ張った使命感といったものが、少しずつ溶けて、体外へ放出されていったのではないかと思うのです。p126

・僕の生来の狷介(けんかい)な性格が、水が流れるように徐々に溶け出して、穏やかな優しい感じになってきている気がする。
人に理解されていない、世界というか他者が遠い、近づきたいという感覚が、僕自身の中にまだある。最近では、他者と自分が一体感を持つことは、そんなに多くないんだと思うほどの余裕も出てきた。
そういう人生を許容するのだと思って、僕もわりと、穏やかな日々を送るようになった。p127

・さいたま芸術劇場には、若い俳優を育てることを目的にした「さいたまネクストシアター」という集団がある。集団としての意識も、俳優としての欲望も、ぼくたの時代とはまったく違う青年たちをみていると、ぼくはやせ細った彼らを割りばし!エンピツ!と呼んで、声が小さい、意思表示をもっとはっきりしろ、演技の基本はコミュニケーションなんだからもっとちゃんと伝えろ、そこからは逃れらなないぞ、といつも言ってるのだが、このごろちょっと考えを変えた。
ドイツの作家やカミュの「カリキュラ」をやると、ぼくらの世代はもとより、その後の若い世代とも全く違う、新しい演技をするのだ。彼らは、孤立し拒絶された青年を演じると、まったく異なった人間になる。
『文藝別冊・蜷川幸雄』p7

これはつまりはこうだ。
「芝居も映画も観ていない、身体もフニャフニャで真っすぐ立つこともできない、しかも危機感がなくて勉強しない」という現代の若者に頭を抱え、怒鳴りまくり、格闘したが、しばらくして様子が変わる。
「貧弱な体形で表情も乏しい、何を考えているかわからない現代の若者を、そのまま出す演出を考えることにした」のである。」p166

また俳優から演出家になった理由については

・「いい劇曲をやるにしても、自分で、ひとはおれにどの役をつけるかなというときに、ぼくの役がないんだよ。言葉を担えないなあというか、テレビに出ても、サラリーマンをやっても何やっても、なんとなく嘘くさいとぼくは感じていた。どうもテレビにも居場所はないし、それじゃあすごい戯曲に居場所があるかといったらそうではなくて、言葉に負けるなあと思ったんです。
僕が演出家だったら、ぼくには役はふらないなと思ったことが、「あっ、やめた、演出家になろう」というのが一番の大きな理由ですね。」p73

またイギリスでの演出も、自分の演技指導の在り方を考えるキッカケとなったようだ。

・「イギリスなどで仕事をすると、徹底的に戯曲分析のためのディスカッションをするわけです。それをしないと、そしてそれが説得力をもたないと俳優は動きませんから。互角に渡り合って、徹底的に分析することで、説得力をもたないかぎり、役者が動かないんです。p73

ここからは蜷川幸雄さんに縁した人たちの言葉を紹介。

・「蜷川さんは嘘のない人だった。はったりや衒い(てらい)、ともすれば世渡りの手管のようなものばかりが見え隠れする場所にいて、かたくなに、生真面目に、演劇を信じ、貫き通した。
後年授与された文化勲章をはじめ、さまざまな「栄誉」をごく自然に身にまとい、同時にすぐtにそのことを忘れさせてもくれるような、根源的な飢えとを手放さない生来の純粋さがそれを支えていた。」p34佐藤信さん

・「批評をめぐり、時に対峙する立場でもあったが、私は蜷川幸雄さんを尊敬してきた。演劇を、芸術を、そして時代や人生を考える時の、一つの規範になっている。
そんな「蜷川幸雄」を形作るものとは何だろうか。3つの言葉が浮かぶ。
羞恥心。義侠心。公正さ。蜷川さんは言った。「僕は記者を差別しないんだ。偉い評論にひどくたたかれていた頃、スポーツ新聞の若い記者が、きちんとした記事を書いて味方してくれた。そういう恩を忘れない。」p221山口宏子さん

・「蜷川さんは劇場に集う者、誰にもフェアに接していた。
ヘロデス・アティコス劇場に入った蜷川さんはまず、劇場の従業員全員と、日本からきた俳優、スタッフを舞台上に集め、顔合わせをした。
「これが、今日から皆さんと一緒に芝居を作る、僕の俳優とスタッフです。どうぞよろしく。」
そう言って、頭を下げた。海外公演のときはいつもそうしているという。

舞台製作に関わらない人も、劇場で働く人たちは、等しく仲間だ。それを目に見える形で示す姿勢に、「こんなことをする演出家は初めて」とアテネの人々は大いに観劇していた。
稽古場でもそうだった。生き生きとした群衆のシーン、そうした場面を担う脇役たちを、蜷川さんはとても大切にした。稽古場では、舞台を横切るだけの演技も「それじゃただの通行人だろ」と厳しく磨いた。

俳優が何十人いても、全員を名前で呼んだ。
売れない俳優だったころに、「映画やドラマの撮影で監督から受けた「右から二人目」という扱いは屈辱だったからね」と話していた。」p223

・藤原竜也さん
「言われ続けたのは最初からずっと、言葉、言葉です」
蜷川演出は視覚性で語られることが多い。だが、蜷川さんは、戯曲に忠実な演出家だ。演技の考え方も、かつて劇団青俳で学んだ新劇が基本だった。
「若い頃にさんざんやったから、サブテキスト(セリフの裏側の意味)を読むのは癖になっている」とよく言っていた。」p226

引用が長くなってしまったため、まとめに入りたい。
蜷川さんの灰皿伝説は、確かに存在していたのだが、それも確かに変移していった。それは上記引用にもあったように、海外公演を多く経験し、俳優たちにきちっと論理的に説明しないと稽古ができないイギリスの演劇界を知ったこと、実際、海外でスタッフやキャストに感情的に怒鳴ると、取り戻すのに時間がかかり、公演にさしさわったりすることもあったようである。
海外の経験は大きい。

そして、日本の俳優たちも変わってきた。戦後の俳優たちは怒っても、反発力があったが、今の若い俳優たちは傷つきやすく、いったんおびえさせてしまうと、関係を修復するのに大変だったようだ。

そして彼の健康面。1997年稽古場で心筋梗塞の発作で緊急入院し、心臓のバイパス手術を受けている。原因は再演も含めて、年に十本もの演出を手掛ける過密な仕事によるストレス。
医師から「興奮せず、怒らず、穏やかな日々を」と言われたこと。

いろんなことが人生にはあって、そして時代も人も変わっていく。それでも蜷川さんは自分の心のなかの「情熱」だけは終生もちつづけたことが、何よりもかっこいい。

東山魁夷さんの言葉に
「私は白い紙に向かい合う。それは紙ではなくて鏡である。
その中には私の心が映っている。描くことは、心の映像を定着させようとする作業である」

向かい合っている俳優たちに、自分の想いをどう伝えるか。その筆運びは、蜷川さんの人生経験と共に変化してはいったけれど、描く美しさ、強さ、心根だけは不変だったように思う。芸術を、人を愛する心だけは。

最後にアメリカの詩人エミリ・ディキンソンの詩の一部をもって、終えたい。
「わたしは「死」のために止まれなかったので
「死」がやさしくわたしのために止まってくれた
馬車に乗っているのはただわたしたち
それと「永遠の生」だけだった。」

「僕自身の100年後、それが美しい未来であって、豊かな優しさに包まれた、人間的な世界であればいいな」
と、願った蜷川さんの、その夢を実現させるための、豊かな演劇づくりは、きっと今もどこかの星で。彼の情熱に、永遠の生が必ず。



(余談)
正三角関係の夏、日本の夏。
今頃舞台の時間だな、そう思いながら無事に終わることを願う日々、2024夏。かなりの長期間の舞台をどう応援したらいいか??と、舞台発表された日から、ぱっと思いついた、一日一ポスト、舞台に関係することを本から学んで引用して、タグつけて盛り上げる!というささやかな、、でも何か推しを応援する気持ちをカタチに!!と、コツコツ続けていますが、書き溜めているわけではないので、毎日激務のなか、寝落ちしかけながら本にしがみついてます(笑)
松本潤くんが元気にしていたというポストを日々みかけると本当にうれしい(感想を書いてあってもそこから読み取る、推しの無事確認)

なので、ずっとドストフスキーの生い立ちや、野田秀樹さんのことを勉強しているのですが、なにせエンタメ無知なので、アングラ?サブテキスト?新劇?全然わからないままで、ようやく演劇の歴史が少しだけみえてきたところです。

そして改めて、潤くんの挑戦がいかに大変ですごいかを知って、千秋楽まで応援じゃ!と本を読んでいます(なぜ本になる?チケットがんばれよ~)

そのなかで潤くんが「ああ荒野」という舞台で蜷川さんがどんなに厳しくても「もっと稽古をつけてください」とくらいついていた、というポストを拝見して、それに対して蜷川さんが「生半可な俳優よりもはるかに飢えている。でもそれは見えないところでしている努力のたまものだからね」と言われていたとも。

これは!!野田さんだけでなく、蜷川さんのことも勉強したら、より演劇わかるかも!!という嗅覚で本を借りてきて熟読。感動して付箋だらけ。これをどうまとめるよ??
結局今回も、どれもはしょれず、最後は引用オンパレード。。
申し訳ありません。。しかもまだ付箋残っていて、もっと素敵な言葉もあって、自分の勉強記録に残したい。。(といっても過去のはほとんど見てない我、ダメウーマン)

改めて、潤くんが一流の人たちとの交流のなかで、磨かれていったことを感じました。すごいのは、それは交流というよりも、切磋琢磨、いや、もはや闘争の時もあったと思うのです。自分との闘争。
そこから逃げずに、くらいついていった潤くんにただただ尊敬しかなく。
こんなに厳しい世界で、ずっとがんばってきたことを勉強から知れたように思います、それでも本当に一部。。
本当に潤くんは心根が、一番カッコイイですね。。

蜷川さんがスタッフ、キャストの名前を全員覚えていた話は、潤くんもそうだったと思って、きっと人生の先輩たちは自分が感じた辛さをどうやって乗り越えたのかも、学んで生かしているのだと感銘しました。

野田秀樹さんが演劇の歴史のなかで、どのような場所におられるのかも、別視点から学んだことで少し掴めてきた気がします。

演出、これはもっと深められるテーマなので、潤くんが何よりしてきている分野なのでいつか勉強できたらという野望を、こんな駄文長文になりながらも抱いています。

蜷川さんの言葉、まだまだあるので、また読み込みたいです。
そして何より、その言葉や感じたことで、私たちの生活が豊かになるといいな、きっとそれが蜷川さんたち、野田さんたちの望んでることでもあるのかなと、エンタメの存在意味をそこでも感じたりしています。

明日からまた酷暑!コロナやいろいろな病気も。。潤くんはじめ、みなさまが無事で。観劇に行かれる方も元気に当日を迎えられますように。

千秋楽11月まで、おーー!(応援!)

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