ヘラクレイトス・パンタレイ考~井田幸昌さん参加の松本潤展覧会を前に

 ヘラクレイトスは「万物は流転する」「万物の原理は火である」と言った。これは生成消滅を繰り返す生死流転の世の有り様を述べたのであろう。東洋思想の諸行無常の精神と一致する。しかし、それは万物の皮相的側面であり、その奥底には確かなロゴス(理)、法があると彼は確信している。流転の奥底にあるものに彼の目は向けられていた。ピュタゴラスに反発したのは、人間の浅い智で世の中を見ていく主観的態度にエゴを感じたからであろう。このピュタゴラス的精神は現代にまで連なる宿業的精神なのだ。
 また彼は「万物の存在を貫く原理は闘争である」と言った。世界の実相は対立するもの同士の闘争である。しかし、この闘争は単なる闘争ではない。この闘争の中に美しい調和があると観ている。
 ヘラクレイトスは万物の真の姿を演繹的に述べ得た最後の哲学者であろう。帰納的な思考に慣れた我々には受け入れ難く、信じ難い哲学である。いつか辿り着くであろう真理よりも信から入る難しさがそこにある。

~ヘラクレイトスを学ぶにあたり、あまりにも時間がないため、読書家の兄に『ギリシャ哲学30講・人類の最初の思索から』(日下部吉信著、明石書店2018)のヘラクレイトスの箇所を読んでもらい簡単にまとめてほしいと懇願したところ、読了した兄自身が上記をこのPCに打ち込み、彼もまた営業所のトップを任されている激務の為、これで分かっただろうと言ってさっさと帰途についてしまった。

これではとてもnoteとしてあげられない、兄の提供したのはエッセンス的まとめなので、自分なりに書物から抜粋しながら簡単にわかりやすくまとめることを目指してヘラクレイトスについて考えたい。

まず別の書籍からヘラクレイトスの箇所を引用。

ヘラクレイトス(紀元前540年~480年頃)
「風変りで常軌を逸した人物として知られるヘラクレイトスは、ソクラテス以前の哲学者のひとりである。
彼が書いたものは、いくつかの断片が残されているだけで、さまざまな人々の著作の引用のうちにばらばらにみつかるにすぎない。
しかし、短く切り詰められ、巧みなパラドックスを折り込み、稲妻のように激しい彼の言葉に人々はおおいに驚いた。

イオニア(現在のトルコの地中海沿岸南部)の方言のギリシャ語で書かれた彼の著作は、自然についての思想を展開するなかで、自然自らがつくりだした真の炎について説いた。

自然から噴き出した溶岩流は、豊富な形態をとる機会を物質に与えながら、しだいに冷え固まっていく。そして、凍てついた鏡のように滑らかな地表の上に、幾何学的な草花を生み出す。

生命あるいは生物がおこなっていることも、これと同じである。
生命という熱素の流れは、また赤々と燃えさかる普遍的な業火へとふたたび戻っていく。
宇宙のはじまりの噴火と同じくらい荒々しい業火へと。
つまり彼によれば、上昇への道と下降への道は、けっきょく同じところへたどり着くことになる。

このようにヘラクレイトスもまた、永劫回帰の思想家の列に加わる。
世界という巨大な歯車は、宇宙の最初の爆発にはじまり、流星の雨が降り炸裂する最後の状態に向かって、永遠に回り続ける。
すべてが死に絶え、そして生き返ることを規則的に繰り返す。

ヘラクレイトスの思想においては、世界はこの火によって動かされ、その火の流れから万物ーすなわち大地、水、空気ーが生まれ、それらはふたたび火へと戻っていくとされる。

それでも、火の流れはけっして鎮まることもなければ、固まって動かない存在になることもない。

そこに「生成変化」の意味することがある。
絶えまなく流れる川の水が、同じものとしてとどまることがないように。

しかし他方で川面は、渦を描きながらも、自然の永続的な通路として残りつづける。
ここで川面は、水(個々の事物)にくらべると安定している。そのように相対的に安定したものをヘラクレイトスは「ロゴス」と呼んだ。

つまりロゴスは、諸要素を解体する恐るべき生成変化の彼方にあるものである。

(『百人に哲学者 百の思想』ジャン・クレマタン著より)

非常に端的かつ、的確にヘラクレイトスの思想をまとめた書物として、これが最適だったのでまず引用したのだが、これまた難解・・どこまでこれを噛み砕けるか・・。

ヘラクレイトスの思想を、5点にまとめてみる。

①「万物は流れる」(パンタレイ)
すべてのものは生成・消滅の流転の中にある。存在するもの、かつ存在しないもの。

②「万物の原理は火である」
生成流転して止まない世界全体の実相、姿は火の如く。

③「万物の存在を貫く原理は闘争である」
世界の実相は対立するものの闘争。

④「闘争の中にこそ美しい調和がある」
対立し、闘争し合うからこそ、そこに美しい調和が生み出される。

⑤ロゴス(ことわり、宇宙秩序)の存在
生成流転して止まない現象の背後にロゴスの支配を見る。

ここまでまとめても、やはり難解なので平易に書きたいがおそらくそうするとヘラクレイトスの思想からやや逸れてしまうか、的確ではないかもしれないことを了承の上。。

まずは、このロゴス。
非常に多様な意味をもつ語で、
ヘラクレイトスが述べた彼自身の言葉をさしているが、彼自身の言葉というのは、では何か?というと、

この宇宙万有にあまねくいきわたっている共通者、すなわち万物を統御し、この宇宙秩序を担う「理法」という意味をもつ。

つまりは、今目の前にみえているもの、人も、すべては大きな宇宙の流れのなかにいるということか。
彼はこう述べている
「魂にとって死は水となること、だが水にとっての死は土となること。そして土からは水が生じ、かのものどもの生を死んでいる(断片六十二)」

個々人の魂の動きは、覚醒から眠りへ、眠りから死へ。そしてまた生まれる。そのもっとも知的なはたらき、英慮について述べているのである。

自然も、そのなかの一部の人の魂もこのように、宇宙の流れ(ロゴス)の通りに流れて回っていくと。

万物流転は「火」とも書いたが、これは、赤く燃える火というよりは、天の上方高く明るく澄んでかがやく純粋な物質(ギリシャではアイテールと呼ばれる)、つまり、太陽や星々その他の神的生命のすみか、元素としての輝く火をイメージしている。

そしてまた対立が不幸なのではなく、そこから調和を生み出すことで価値が生まれると説く。諸物は対立し闘争して存在しているが、それはこの宇宙が繋がり結合し調和していくための道程ととらえている。

死すべき人間に対して、不死なるもの、永遠に生きるものというのがギリシャ人の第一義的な神概念だが
ヘラクレイトスはなによりも全体としての宇宙秩序そのものにこそ、神の特性をみたのである。

「このコスモス(宇宙秩序)は、あらゆるものにとっての同じひとつのコスモスであり、神々の誰かがつくったものでも人間たちの誰かがつくったのでもなく、
永遠に生きる火としてつねにあったし、あるし、あるだろう。一定限度だけ燃え、一定限度だけ消えながら。(断片三十)」


私的に簡単に書くとつまりは、ヘラクレスの思想とは、、

「すべては流れ、流転していくのは、宇宙の秩序なんだよね!
キラッと輝く火のような姿ですべては変化していくよ。
そして私たちや自然は存在しながら他のものと対立したり闘争するけど、そのなかから美しい調和が生まれるからさ。意味はある。
こういう真理を抵抗することなくまっすぐ受け止めていこ?我見、自分の考えに縛られてると、偏狭だし、しんどいよ?いいことないよ?」

こういう感じと思いました。長々すみません(そして多分違います)。。



それにしても世界において、距離はあろうとも人間というのはどこか共鳴し合って存在してきたのか、はるか昔より西洋に偉人がでれば、東洋にもまた偉人が同時期にでているように思える。

西洋哲学のおおもとともいえるギリシャ哲学。キリスト教以前の世界もまた確かな哲学、思想を求めて人類は自分の思いを表現し議論もしてきた。人間の存在意味とは、幸せとは、世界とはという果てしない問いかけ。

キリスト教の誕生によって西洋思想も変容していったが、中国もまた同様であった。諸子百家、議論が沸騰し孔子自身も「私は現在しかわからない(過去・未来は未知)」と述べながらもあらゆる思想のなかでその儒教思想が大勢をしめていたが、インドの釈迦の教えが伝来したことによりその後大きな変化をもたらしている。

ヘラクレイトスらが全盛を迎えていた時期はちょうどインドの釈迦誕生の時期と符合すると思われる。紀元前およそ2500年。
人の人生が100年もあるかないかのなかで、この遥か昔2500年も前から人がただ食し寝て生きてという人生で終わるのではなく、ここまで「宇宙とは」「人間とは」を深く思索していたことに改めて驚嘆する。

大学時代私はプラトンの『国家』を読み、ソクラテスは自身の思想をこのような聡明な弟子により言葉として残してもらえたからこそ、今もその思想が残っているのだとその深い考察とともに、弟子プラトンの功績に感動したが、
ヘラクレイトスの言葉を含めた哲学は、集成した書物が流布していてプラトンをはじめとして古代後期にいたるまで数多くの哲学者に強烈な印象をあたえ、広範な影響を及ぼしたが、今日私たちがヘラクレイトスの言葉に触れられるのは、古代の著作家たちによる断片的引用のみとなっている。残念でもある。

インドの釈迦もまた当時のインドは口承で伝え残す時代であったが、釈迦の教えを暗唱するだけでは後世に正しく残らないとの危惧から仏典として残していく作業が始まっている。今回のどうする家康でも描かれた、家康の日課念仏など、日本に仏教が伝来したのも、残していった人々の苦労ありてとも思う。

またピュタゴラスについても。

ヘラクレイトスは、ピュタゴラスよりも30歳ほど年下であったが、数学者で賢人と賞賛されているピュタゴラスのことを、この世の中に悪い考えをもちこんだ人物として非難している。ヘラクレイトスは、ピュタゴラスが我見・我執が強く浅い考えをもちこんで、ロゴス(法、宇宙秩序)の存在を無視していくようなエゴイズムを広げたとして非難していたのである。

「事象のすべてがここに述べるロゴスに従って生じているという分別が、どうやら彼らにはないらしい。
共通のものに従わなければならない。すべてに共通なのはロゴスなのに、多くの者どもは、まるで自分専用の思慮分別をもっているようなつもりで生きている」(断片二)

このように我見に陥ることを非難しつつこう書く。

「私にではなく、ロゴスに耳をかたむけて、万物が一であることに同意するのが知恵というものだ」(断片五十)

ピュタゴラスやヘシオドスのような知者、賢者と呼ばれる者たちを含め、世の大多数はこのロゴスを知ってそれに聴き従うということができず、人々を迷走にますます追いやっていることを非難するのである。
そして、ヘラクレイトスは自分が悟得した宇宙秩序、万物の統合調和の実相の真理を、謎めいた暗喩を用いて書き残しているのである。

ピュタゴラスへの批判が、なんとも今の科学万能説にもみえる傾向に思えてしばし考えてしまった。

井田幸昌さんの京セラ美術館での「パンタレイ」最後の展示されていたのは
「最後の晩餐」。そしてその絵はAIの女性たちで描かれていたのだ。

AIの女性たちにした理由を井田幸昌さんは明確にその答えは述べてはいない。観るものに委ねるのもまた芸術家の大きさ。

改めてこのヘラクレイトスを学んで、ギリシャ時代からの哲学の歴史、人類が議論し求めてきた道程を読んでいて、確かに科学の最高峰たるAIはこれから人類の期待ともされながら他方で人間の居場所を奪っていくと不安視されているが、
私はAIは人類のこの何千年もかけてきた精神闘争までは会得できないと思うし、なにより、万能となっていくといわれるAIが絶対に成しえないことが一つあると思っている。

それは「信じる」ということ。その心をもつこと。

相当数の情報・データから出てくる何らかの力はあろう。適切な言葉も伝えてくれるだろうし、適切な言葉をかけてくれて一見優しいぬくもりも持つのかもしれない。
けれどその提供する根本に、人を信じる心はあるのか?

人間は与えるものに対して「心を込める」ことができる生き物だ。
それがAIにはできない。相手を信じていくこと、何かを信じていくこと。
その心を持てないAIには、究極的には人の心の機微の、最小の核心ところにまで届くことはないのではないか。

井田幸昌さんが「最後の晩餐」で描いたように、世の中の流行にのった服を着て、求められるポーズもとれよう。
しかし、その表情は?その瞳の奥は?
瞳の奥に本当の輝きをもてるのは人間だけであると断言しよう。
その心とは、自分を信じてくれている人が届けてくれる優しい光ともいえる。それはお金では買えないものである。

井田幸昌さんがなぜ「パンタレイ」と名付けたのか。
11月19日に「井田幸昌の過去・現在・未来」と題する講演があり、ズームにて視聴した。
描きながら考える日々。自分がどうしたいのか、何がしたいのか。時には泣き、壊し、地元の海をただ眺めていた時代。悩みながらもまた向き合った創作活動。
井田さんはその著『100年後への置き手紙』で、浪人を経て東京芸大に合格した時父親が初めて涙をみせたことを回顧してこう書いておられる。

「初めてみた父の涙だった。30を越えた今でも考える。
俺は少しは親孝行できているのだろうか。
運命。人生の濁流の中、おぼれそうになっていたとしても、
一縷の希望だけは用意してくれている。
希望を掴み取るその日まで逃げてはいけない。」p94

そして自分の名前について
「幸昌って名前を両親は僕につけた。
幸せを運んでこれる人になってほしかったんだって。(中略)
ある日僕は思い立ったんだ。人を幸せにするために生きてみようか。
そうして僕は画家になった。」p166

彼のなかで幾度か変化のきっかけがあり、今回京都での個展開催は、アーティストになろうとしたきっかけや京都の話を友人としたところ
「その京都で個展しなよ!」という約束をし、その魂の約束を果たすためにしたと話しておられたのがとても印象的で、のちのインスタライブでその詳細を知って、、またこの個展開催までどれほどの障害があったかも。

とても考えさせられた。悲しく、切なく、でもそれでも命ある限り、何かを生み出そうとする井田さんの繊細な逞しさ、そして友への愛情。とても素敵だなと思う。

ヘラクレイトスの言葉「パンタレイ」万物流転とした彼の気持ちは恐らく、
万物流転の先に、また親友と再会できる道を描きたかったのではないだろうか。古代の賢人が紡いだ言葉は2500年経った今の現代でも誰かに希望を与えている。

私は、自らが持っている条件と戦いながら、そのなかでもこれからの自分の未来に目を向けて、よりよい生き方をと思う心が好きだ。
どんなものを背負っていても、その条件のなかでも、悲喜こもごもありながらも一歩一歩進んでいる人が大好きだし、自分もそうありたい。

今回の「松本潤展覧会」に参加されているアーティストの皆さまのお話を聞いていると、観た人がなにかここで、あたたかいものを得て、明日からも楽しくすすめるような、人に「益」をもたらすようなものをと全身全霊で一緒に取り組まれている姿がすごく素敵だなと思っている。

そしてAIには決して書けない松本潤くんの書いた字「ようこそ」を観るのが一番実は楽しみだったりもする。写真で見たがとてもぬくもりのある字を書く人だなとずっと思ってきたから。その字が彼の心根を一番表してると思っている。

最後にヘラクレスの言葉を。
「黄金を探究するひとは、たくさんの土を掘ってわずかな黄金を得る(断片二十二)」
「知を愛する者(哲学者)は、じつに多くのものごとの探究者でなければならない(断片三十五)」
そして最後に、なぜか涙がこぼれたこの言葉で終わりたい。

「道は上り下りひとつにして同じ」(断片六十)

(余談)
2021年12月30日
私はきっと二年前のこの日を生涯忘れない。
あの年の年末も父の介護で、父の粗相をした布団を洗ってコインランドリーに持っていき乾燥させていた。
30歳からはじまった介護生活。虫歯の膿が脳にあがってその切開手術のため全身麻酔をした後から脳の側頭部の血流不全による認知症が始まった父。介護の内容まで書くと介護が怖くなってしまわれたら申し訳ないので省略。

なにかリフレッシュしないともたないな~と、たまたま見たネットで99.9映画の初日舞台あいさつがあるとみて、大野君の話をしてくれないかなという不純な気持ちで(笑)、嵐くんの映画は絶対みてきたからそれもあって、映画館に行ったあの日。
今日のように快晴だった。映画も面白かったけれど、舞台あいさつに立った松本潤くんの明朗で、周囲への配慮もあって、これからの仕事に向かっていく旭日のような光にあふれている姿に感動して
数日後には二条城にいってたし、家康本も買って、このNOTEも始めていた、、自分に何が起こっていたのか、電撃を受けていたので覚えていない部分も(笑)
それから二年。その間もいろいろなことがあって、でもこうして勉強してきたのは、推しを応援するなら、自分も何か学んで成長したかったというのが大きい。そして推しの応援のひとつにもなりたかった。
大河を終えて、今松本潤くんも元気にしていることがとてもうれしいし、
ここから私は大河も終わったのでこのNOTEも終わりとはならず、まだまだ勉強材料を推しからもらったので(現代アート、建築、舞台、エンタメ全般、あと食育とか?)まだまだ自分なりに月に一回はここで勉強をまとめていって、推しを応援していく所存です!

どうする家康の感想はまた後日に。。ヘラクレスのことで長文になりすぎました!
楽しい2年間を本当にありがとう!!
まだまだ学びも応援も続く~!!

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